ルートヴィヒ・オットー・ツー・ザルムとは? わかりやすく解説

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ルートヴィヒ・オットー・ツー・ザルム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/04 07:22 UTC 版)

ルートヴィヒ・オットー・ツー・ザルムLudwig Otto Fürst zu Salm, Wildgraf zu Daun und Kyrburg, Rheingraf zum Stein, 1674年10月24日 - 1738年11月23日)は、ドイツの諸侯。ザルム侯(1710年 - 1738年)。

神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の侍従長だったザルム侯カール・テオドールとその妻でプファルツ=ジンメルン公エドゥアルトの娘であるルイーゼ・マリーの間の長男として生まれた[1][2]。1700年7月20日、ナッサウ=ハダマール侯モーリッツ・ハインリヒの末娘アルベルティーネ・ヨハネッテ(1679年 - 1716年)[3]と結婚し、間に3人の娘をもうけた。

  • ドロテア・フランツィスカ・アグネス(1702年 - 1751年) - 1719年、分家筋のザルム=ホーフストラーテン伯ニコラウス・レオポルトと結婚
  • エリーザベト・アレクサンドリーネ・フェリーツィタス・シャルロッテ・ゴットフリーデ(1704年 - 1739年) - 1721年、リーニュ公クロード・ラモラル2世と結婚
  • クリスティーネ・アンナ・ルイーゼ・オスヴァルティーネ(1707年 - 1775年) - 1726年、ヘッセン=ローテンブルク方伯世子ヨーゼフと結婚

1723年、叔母のコンデ公妃アンヌの死後、曾祖父マントヴァ公カルロ1世が1608年に入手したフランスのアルシュ公領フランス語版の相続をめぐり、ルートヴィヒ・オットーは義弟のウルゼル公コンラッドと係争したが敗訴し、公領はウルゼル家に継承された[4]

1738年アンホルト城ドイツ語版で没し、ザルム侯家本家は断絶した。分家筋で娘婿のザルム=ホーフストラーテン伯ニコラウス・レオポルトが義父の所領と資産を継承し、1739年ザルム=ザルム侯位を授けられた。

引用




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