久我家相続問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/18 07:27 UTC 版)
岡野友彦の指摘や同時代の『園太暦』、『花園天皇宸記』の記述からうかがえるように、長通は父通雄から義絶されていたようである。応長元年(1311年)に誕生した異母弟通定を父通雄が偏愛して久我家の家督を通定に譲ろうとしたために義絶された、と考えられている。しかし、元徳元年(1329年)12月に通雄は薨去し通定への家督相続を確定させることができなかったのである。 最終的には「久我長通譲状」を長通は認めて、通相に所領や洛中の邸宅9箇所を相伝させることができたのである。
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