久我家の家督相続問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/18 07:24 UTC 版)
岡野友彦が指摘しているように、晩年に生まれた通定(1311−?)を偏愛した通雄は長男の長通を義絶して家督を通定に譲ろうとしていたようである。例えば延慶4年(1311年)2月23日の不参公卿の名を洞院公賢が列記している中に長通の名があり、そこに父通雄に義絶されたという風聞がある、と書かれている。また『花園天皇宸記』元亨3年(1323年)9月29日の条には、長通が大納言に還任したことについて不審に思うという記事がある。同時代の証言が残されていることから、通雄が長通を義絶したのは事実のようである。しかし、勅定により長通が大納言に還任し、元徳2年(1330年)2月26日に長通が内大臣に就任すると同時に通定が権中納言を辞し、建武2年(1335年)8月2日には通定が出家して、久我家家督は長通とその息男である通相に伝えられることになったのである。
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