スペイン首相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/28 05:55 UTC 版)
「カルロス・アリアス・ナバーロ」の記事における「スペイン首相」の解説
1973年12月にはカレーロ・ブランコ首相がバスク祖国と自由(ETA)に暗殺されたため、12月31日、アリアス・ナバーロが第73代スペイン首相となった。フランコの妻であるカルメン・ポロ(英語版)などフランコ家の支援を受け、民政移管期(英語版)まで首相の座を保持した。2008年11月3日付のエル・パイス紙によると、「1974年4月25日にポルトガルで起こった左翼のカーネーション革命後、1975年3月にアリアス・ナバーロがアメリカ合衆国のロバート・スティーヴン・インガーソル国務副長官と会い、共産主義の広がりを食い止めるためにポルトガルへの侵略を申し出た」とする文書がアメリカ国立公文書記録管理局から公表された。3月18日にインガーソル国務副長官がヘンリー・キッシンジャー国務長官に送った報告書では、「ポルトガルでの行動がポルトガル=スペインの国境を超えないことを保証するために、適切な手順がなされている」と述べられている。インガーソル国務副長官は「アメリカ合衆国が軍事基地の状況を再交渉した時点で、スペインは戦争の際にアメリカ政府がスペインを支援することを望んでいる。アリアス・ナバーロは、アメリカ政府がスペインの将来的な北大西洋条約機構(NATO)加盟を支援することを望んでいる」と付け加えた。 1974年3月にカタルーニャ地方のアナーキストであるサルバドール・プッチ・アンティックを絞首刑にしたことは、アリアス・ナバーロの政治的自由化への嫌悪感の表れであり、1974年9月の一連の処刑、1975年11月のモロッコ国王ハサン2世による緑の行進の組織化、フランコの病気と1975年11月の死去などは、アリアス・ナバーロの権力基盤を弱体化させた。国家元首としてのフランコの後継者であるフアン・カルロス1世はアリアス・ナバーロを首相の座にとどめ、マヌエル・フラガ・イリバルネ副首相やホセ・マリア・デ・アレイルサ外務大臣などを含むアリアス・ナバーロ内閣はしぶしぶながら、フランコ死後の最初の改革に着手した。アリアス・ナバーロはフランコ政権末期の政策の継続を望み、いかなる変化にも反対した。権力闘争が長期間に及んだため、アリアス・ナバーロは1976年7月1日に首相を辞任した。翌7月2日、グランデの地位とともにアリアス・ナバーロ侯爵の世襲称号を授けられたが、彼には後継ぎがいなかったため、これらの称号は彼の死後に断絶している。7月1日から7月3日まではフェルナンド・デ・サンティアゴ・イ・ディエス(英語版)が暫定首相を務め、フアン・カルロス1世は7月3日にアドルフォ・スアレスをアリアス・ナバーロの後任の首相に任命した。
※この「スペイン首相」の解説は、「カルロス・アリアス・ナバーロ」の解説の一部です。
「スペイン首相」を含む「カルロス・アリアス・ナバーロ」の記事については、「カルロス・アリアス・ナバーロ」の概要を参照ください。
スペイン首相 (2011 - 2018)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 04:07 UTC 版)
「マリアーノ・ラホイ・ブレイ」の記事における「スペイン首相 (2011 - 2018)」の解説
12月20日、下院にてナバーラ住民連合(UPN)とアストゥリアス市民フォーラム(FAC)の支持も得て、第6代首相に指名された。 2013年1月31日、スペイン紙エルパイスがラホイを含む与党国民党の汚職疑惑を報じた。企業献金から、不正な支払いがラホイ首相など国民党幹部に支払われていたというもので、ラホイには11年にわたって年間2万5200ユーロ(3万4200ドル)が支払われていたとされる。ラホイは不正を否定しているが、野党は政治家の信頼回復のために首相に辞任を要求している。 この汚職疑惑が原因の一つとなって、2013年2月4日にはスペインの国債が下落、ユーロが主要16通貨の過半数に対して値下がりした。国民の間では抗議デモが起きている。 2013年10月に日本を実務訪問し、安倍晋三首相と会談した。ラホイと安倍は前月に東京都とマドリードが2020年夏季オリンピック・パラリンピック招致を争ったIOC総会(アルゼンチン・ブエノスアイレス)において顔を合わせているが、ラホイは改めて東京オリンピック・パラリンピック開催決定に祝意を述べ、日本とスペインの交流400周年を契機とした両国関係の強化などで安倍と合意した。首脳会談の前にラホイは福島県を訪問し、2011年アストゥリアス皇太子賞(平和部門)を受賞したフクシマ50代表者と懇談した。 2014年6月2日、国王フアン・カルロス1世が退位を表明し、ラホイにその旨を伝達した。この時点ではスペインにおいて国王の生前退位・譲位を定めた法令が存在しなかったため、ラホイは関係法案提出を急いだ。6月18日に「国王の退位に関する法律」を上下両院は可決し、フアン・カルロス1世は長男のフェリペ6世に譲位した。 2015年12月の総選挙では国民党は第1党を維持したものの議席を大きく減らし、下院の過半数を維持できなくなった。他党との連立協議は不調に終わり、ラホイはフェリペ6世から首相候補となるよう要請されたが、「必要な支持を得られていない」と辞退した。しかし、社会労働党のペドロ・サンチェス書記長(党首)の首班指名は否決され、下院は首相を指名できない事態が続いた。2016年5月、ついに憲法の規定により国王が上下両院を解散し再選挙することとなった。こうして6月26日に議会総選挙が執行され、再び国民党は第1党を維持したもののやはり過半数は得られなかった。ラホイ暫定首相を首班とした政権樹立を目指したが、社会労働党がその信任を拒否したため政権発足は暗礁に乗り上げた。しかし10月1日になって社会労働党はサンチェス書記長の辞任を決定し、10月23日になって首相信任投票で棄権することを発表したことで、ラホイ政権は信任されることとなった。11月3日に新内閣が発足し、2015年末の総選挙以来、約10ヶ月間に及ぶ暫定的政権は終わりを迎えた。その後も野党からの不満はくすぶり続けたが、2017年6月14日には内閣不信任決議案を賛成82、反対170票、棄権97票で否決。しかし与党に汚職事件が持ち上がり、2018年5月に再び不信任決議案を出された。6月1日の採決では賛成180票、反対169票、棄権1票で不信任決議は可決され、翌2日に社会労働党のサンチェス書記長が首相への就任宣誓を行いラホイは退任した。1977年のスペイン民主化以来、初の不信任決議可決による首相辞任となった。
※この「スペイン首相 (2011 - 2018)」の解説は、「マリアーノ・ラホイ・ブレイ」の解説の一部です。
「スペイン首相 (2011 - 2018)」を含む「マリアーノ・ラホイ・ブレイ」の記事については、「マリアーノ・ラホイ・ブレイ」の概要を参照ください。
- スペイン首相のページへのリンク