スペイン領・メキシコ領時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 08:20 UTC 版)
「サンタフェ (ニューメキシコ州)」の記事における「スペイン領・メキシコ領時代」の解説
1540年にヌエバ・ガリシア(現メキシコ西岸)の町コンポステーラ(Compostela)から遠征してきたフランシスコ・バスケス・デ・コロナド(Francisco Vázquez de Coronado)により北部ニューメキシコ一帯は征服された。1598年、フアン・デ・オニャーテがこの地にヌエバ・エスパーニャ副王領の新しい州サンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコ(Santa Fe de Nuevo Mexico)を創設し、サンタフェはその首都として1607年に建設され、入植が始まった。都市を建設した第3代総督、ドン・ペドロ・デ・ペラルタ(Don Pedro de Peralta)は、この都市を「アッシジのフランチェスコの聖なる信仰に忠実な王都」という意味の、「ラ・ビリャ・レアル・デ・ラ・サンタ・フェ・デ・サン・フランシスコ・デ・アシス」(La Villa Real de la Santa Fé de San Francisco de Asís)と名付けた。1610年には総督邸が完成し、正式にヌエボ・メヒコの首都となった。 スペイン人はプエブロ・インディアンを強制的にキリスト教に改宗させたが、同時に先進の農業手法をプエブロ族にもたらし、ナバホ族やアパッチ族からの防衛を行ったため両者はうまく共存していた。しかし1670年代に飢饉が一帯を襲うとスペイン統治は弱体化し、1680年にはメディスンマンの取締りに端を発してポペに率いられたプエブロ・インディアンが武装蜂起し、プエブロの反乱を起こした。プエブロ族はサンタフェからスペイン人入植者を追い出し、10年以上に亘り部族統治を行った。プエブロの反乱は北米史で成功を収めた数少ないインディアンの反乱のひとつとして知られている。ところがサンタフェの統治権を巡ってプエブロ族内で激しい内紛が絶えず、また度重なる飢饉のためプエブロ族は次第に統治能力を失った。1692年にディエゴ・デ・バルガスに率いられたスペイン軍がサンタフェでプエブロ族の酋長たちと話し合い、この地を無血占領(Bloodless Reconquest)すると、サンタフェは1810年までヌエボ・メヒコの主都として栄え、同年に勃発したメキシコ独立戦争が1824年に終わると、サンタフェは新生メキシコの憲法によって、メキシコ領ヌエボ・メヒコの州都となった。
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