ポペ
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ポペ(Po'pay, およそ1630年-1692年より前)は、オーケイ・オウィンジェ(Ohkay Owingeh, 公式にはサンフアン・プエブロとして知られる集団)出身のテワの宗教上のリーダーで、1680年スペインの植民地支配に対する、いわゆるプエブロの反乱を率いた。
スペイン人宣教師たちの先住民インディアンに対する強制改宗が行われていた中で、ポペは1675年、「魔術」を使ったかどで告発、逮捕されて裁判を受けた、47名のインディアンのうちの一人だった。有罪とされた3名は彼らのそれぞれの村々から連行され、2名は絞首刑にされ、1名はスペインがする前に首吊り自殺をした。残った44名は衆目の前で鞭打ちの刑にされ、収監された。
アパッチとの戦争のため大人数の兵士が遠くに出かけていなかったために、スペイン領総督のフアン・フランシスコ・デ・トレビニョは、ほどなくして囚人たちを解放した。ポペは帰宅し、起こったことに深い侮辱を感じた。それからすぐに、彼は北のタオス・プエブロへ移動し、1680年のプエブロの反乱を計画した。
1692年、ポペの死のすぐ後、スペインの支配は復活した。しかし以前よりは譲歩した統治であった。この新しい時代において、スペインはプエブロの言語と宗教を積極的に破壊しようとは試みず、それで現在もなおプエブロ文化は残っている。このことを理由として、ニューメキシコ州民は、2005年9月22日、ワシントンD.C.の国立彫像ホール・コレクションにポペの銅像を創ることを選んだ。それはニューメキシコ州を代表する彫像の2体のうちのひとつである。
ポペ
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魔術の使用による逮捕とその後の釈放に続いて、ポペはプエブロの反乱を計画し、これを指揮した。いくつかの殺人の共犯によってスペイン当局から逃げていた間、ポペはタオス・プエブロの集落で難を避けた。ポペは、スペイン人に対して一斉に蜂起することを命令するその日までの残り日数を意味する結び目を付けた、プエブロ独特の結び目の暗号を持たせた使者を、各プエブロ集落に派遣した。 攻撃の決行日は1680年8月18日と決定された。しかしスペイン人はこれを事前に知ることができた。なぜなら、プエブロにメッセージを伝えるために預けられた、テスケ・プエブロ(現在のテスケw:Tesuque, New Mexico)の2名の若者を捕らえて聞き出したためである。ポペは、蜂起が計画された日の前の、8月10日、陰謀の実行を命令した。攻撃はタオス、ピクリス、テワによって、それぞれの集落で一斉に開始された。18人のフランシスコ修道士の聖職者、3人の平修士、男女子供合わせて380人のスペイン人が殺された。スペイン人開拓者は唯一のスペイン人の街であるサンタフェと、反逆に参加しなかった数少ない集落のひとつ、イスレタに逃げ込んだ。9月15日、イスレタへの避難民は、自分たちが唯一の生存者であると信じて、エルパソに向けて出発した。その間、ポペの賊はサンタフェの町を囲い込み、水の供給を断ち切った。総督邸を厳重に囲んだアントニオ・デ・オテルミン総督は、これで後退を余儀なくされ、9月21日にスペイン人の移住者たちは首都から一掃されて、エルパソ・デル・ノルテ(現在のシウダー・フアレス)へと向かった。 ピロ・プエブロは、イスレタと共に、エルパソ・デル・ノルテまでスペイン人に同伴した。このことがおそらくはスペイン人の同情者と考えられた。イスレタの人々は、テキサス州にイスレタの開拓地を設立し、今日までそこに住んでいる。
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