逮捕とその後
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1873年2月11日の朝、ソロモンはオックスフォード・ストリートにあるストラットフォード・プレイス(英語版)の公衆便所で60歳の文盲の馬丁、ジョージ・ロバーツとともに逮捕され、検査の結果性行為が発覚した。ソロモンは矯正院に禁錮18ヶ月の刑を受けたが、この時は従兄弟のマイヤ・サルマンが100ポンドもの保釈金を支払い釈放されている。だが、翌年3月3日、パリで19歳の男娼、アンリ・レフランクと共にいた所を再逮捕。3ヶ月の禁固刑と罰金が課せられた。 ソロモンの、その後の生涯には謎が多い。一般に語られるのは一族や友人たちから見捨てられ、世捨て人になったソロモンは街頭の絵描きや靴紐を売ったりするなど極貧の生活を送り、やがて重度のアルコール中毒に陥り、セント・ジャイルズ救貧院に入るという零落の物語である。 かくしてソロモンが奈落へと落ちていく中、スウィンバーンも重度のアルコール中毒で幾度となく生死をさまよっていた。1879年10月15日に、スウィンバーンが詩人仲間のエドムンド・ゴス(英語版)に宛てた書簡には、出所後生活に困窮したソロモンがスウィンバーンから受けた手紙を売り飛ばす事案があり、憤慨したスウィンバーンはソロモンを「動物よりも汚らわしいこんなもの」と侮蔑するなど、もはや2人の関係が破綻したのみならず、いつスウィンバーンにも類火か及ぶかという事態になっていた。それを見かねた詩人仲間にして弁護士のセオドア・ワッツ=ダントン(英語版)によって1879年、テムズ南岸プットニー(英語版)にあるパインズ荘(英語版)に隔離され、以後の人生をワッツの庇護と監視の元で暮らしていくこととなった。ワッツの献身によって数々の依存症や異常性癖は克服できたが、耽美派詩人としての牙は残らず抜かれていったのである。そんなワッツ、ゴスらスウィンバーンの更生を願う詩人仲間たちにとって、ソロモンは抹殺すべき「悪い友人」でしかなかった。彼らの手によってスウィンバーンとソロモンとの関係を示す資料の多くが破棄されることとなる。ソロモンが長く歴史から忘れ去られたのは、このことが大きい。 さて、アカデミーから追放されたソロモンを待っていたのは、デカダンスに染まった新しい顧客である。彼らはソロモンを同性愛、耽美主義の体現者としてその絵を求めた。 写真家フレデリック・ホリーアー(英語版)によって写真という形で紹介されたソロモンの絵を、詩人ライオネル・ジョンソン(英語版)は自室の壁一面に飾り立てるほど愛好していた。このジョンソンによって、W・B・イェイツが設立した詩人クラブ(英語版)に出入りするようになり、そこでイェイツを始め、アーサー・シモンズ、アーネスト・ダウソン(英語版)、そして会員ではなかったがクラブに出入りしていたオスカー・ワイルドと交流を持つようになる。ソロモンの情報はさらにオックスフォードにも届き、スウェーデンの伯爵にして詩人、エリック・ステンボック(英語版)の知遇を得るようになる。ステンボックはソロモンのパトロンとなり、95年に死去するまでソロモンの生活や画家の活動を支えた。この時期、ソロモンはハーバート・ホーン(英語版)による美術誌『ザ・ホビー・ホース(英語版)』の挿絵を担当しており、アーツ・アンド・クラフツ運動を広く紹介したこの雑誌によって、ソロモンはラファエル前派と象徴主義との橋渡し役となったと云える。 1890年代には、ワイルドの愛人として知られ、彼の死後にその事業を編纂した美術評論家のロバート・ロス(英語版)によってアメリカに紹介されると、ソロモンを始めラファエル前派の作品がアメリカに流入し評価を得ることとなる。このロスや、ソロモン死後の1908年に初の画集を出版したアメリカ人美術家、ジュリア・エルスワース・フォード(Julia Ellsworth Ford)は晩年のソロモンと面会し、両者とも、ソロモンがうらぶれた生活を送りながらも絵への情熱を失っていなかったことでは共通する見解を残している。 だが、1886年にレベッカが交通事故で世を去ると、94年にペイター、95年にスタンボック、98年にバーン=ジョーンズとモリス、そして1900年にワイルドが放浪の果ての世捨て人として先立っていった。1902年にはソロモンと同じように酒と同性愛に耽溺したジョンソンが自殺した。1901年にヴィクトリア女王も死去し、1つの時代が確実に終わろうとしていた。こうして1905年8月14日、セント・ジャイルズ救貧院の食堂で心臓発作のため、64歳の生涯を閉じた。 亡骸はロンドン郊外、ウィルズデン(英語版)のユダヤ人墓地(英語版)に埋葬された。その後、無縁仏同然となったソロモンの墓は、前川祐一が1980年代に訪れた時には墓石も倒れたままの無残な朽ち果てぶりだったが、2014年に子孫や支援者の手によって修繕され、新たな墓碑が追加された。
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逮捕とその後
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「ヴァレンティン・チャウシェスク」の記事における「逮捕とその後」の解説
1989年の東欧革命の一環で発生したルーマニア革命の最中、ヴァレンティンは他の家族とともに逮捕された。チャウシェスク家(英語版)の贅沢な暮らしぶりは世界的に有名で、彼らはルーマニアの経済を弱体化させたと非難された。ヴァレンティンはステアウア・ブカレストフットボールクラブ(英語版)を経営する立場にあったといわれている。彼は逮捕中にテレビで両親の裁判(英語版)を見たことを述べている。 ヴァレンティンは不起訴となり、9か月後に釈放された。その間、ルーマニアの巨匠による50点の絵画やフランシスコ・デ・ゴヤの版画、数百冊の稀覯本といった彼のコレクションが没収された。彼がその返還を求めたとき、ルーマニア当局は、彼が所有者であることを証明する書類はなく、その美術コレクションはルーマニア国家に帰属し、直ちにルーマニア国立美術館(英語版)へ寄贈されたと主張した。ヴァレンティンは政府に対して返還を訴えた。2009年にヴァレンティンは勝訴し、裁判所は美術館に40点の絵画を返還するよう命じた。それらのほとんどはヴァレンティンと前妻のダーナが収集したものであった。彼は返還された絵画のほとんどを彼女へ贈ることを計画した。
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逮捕とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 15:16 UTC 版)
1958年6月16日夕方、安藤組大幹部・花形敬(当時28歳)にも逮捕状が出され、神宮外苑で逮捕された。同年7月15日に、安藤昇と安藤組大幹部・島田宏が神奈川県葉山町の別荘で、7月22日に、千葉一弘と東興業専務・志賀日出也が山梨県内で、それぞれ逮捕された。7月23日、安藤組・小笠原郁夫が自首。北海道旭川市内で、安藤組大幹部・花田瑛一も逮捕された。右翼の佐郷屋留雄は横井英樹を説得し、「減刑嘆願書」を取り付けた。 同年12月25日、東京地裁にて安藤昇は懲役8年、志賀日出也は懲役7年、千葉一弘は懲役6年、島田宏は懲役2年、花形敬は懲役1年6か月、花田瑛一は懲役1年6か月、小笠原郁夫は懲役1年の実刑判決を受けた。安藤は中野分類刑務所に、志賀と島田は胸部疾患のため八王子医療刑務所に、花形は宇都宮刑務所に、花田は網走刑務所に収監された。 警視庁ではこの事件を教訓として、同年11月、警視庁刑事部に暴力団捜査の専務課である捜査第4課(現:組織犯罪対策部組織犯罪対策第4課)が設置された。 1964年(昭和39年)9月15日、安藤組長は、6年2か月の服役を経て、仮釈放で前橋刑務所を出所。同年11月、対立組織との抗争で配下の西原健吾が殺されたのをきっかけに、12年の歴史を持つ安藤組の解散を決意。同年12月9日に千駄ヶ谷区民講堂で「安藤組解散式」を行った。これは暴力団の自主解散第1号であった。 横井はその後、ホテルニュージャパンの社長に就任した際「俺は身体にピストルの弾が入っているんだ。お前らはタマはあそこの2つだけだろう!だが俺はお前らとちがって1つ多いんだ!俺にはタマが3つあるんだ!!」と、この事件をネタにホテルの従業員一同に豪語しており、実際に1998年に横井が逝去し、荼毘に付された横井の遺骨から、前述にあった「身体に食い込んで摘出できなかった銃弾」が見つかっている。 また、安藤は横井の死後、タマが3つあると豪語した生前の横井を振り返って「アイツは金が好きだったからな」と皮肉を述べている。
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