豊多摩刑務所とは? わかりやすく解説

豊多摩刑務所

(中野分類刑務所 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/31 22:48 UTC 版)

座標: 北緯35度42分56秒 東経139度39分44秒 / 北緯35.715430825152964度 東経139.66210241652715度 / 35.715430825152964; 139.66210241652715

"厳重な門は社会とすべての交渉を断つが 内の生活は予想外に明るい 中野刑務所正門入口"(「刑務官のしごと」『写真公報』1960年3月15日号, 大蔵省印刷局, p.4)
旧豊多摩刑務所表門

豊多摩刑務所(とよたまけいむしょ)は、大正昭和を通じて東京府豊多摩郡野方村(現:中野区新井3丁目)に存在した刑務所豊多摩監獄中野刑務所(なかのけいむしょ)と呼ばれた時代もある[1]

概要

特に1925年大正14年)の治安維持法制定以後は思想犯が多数収監された。 1933年昭和8年)9月時点では、278人の左翼運動者が収容されている[2]1941年(昭和16年)には治安維持法が改正され、刑期終了後も非転向者の拘禁を可能とする予防拘禁制度が発足。豊多摩刑務所内には拘禁所が設けられ、刑期終了後に拘禁され続ける者もいた[3]

思想犯の全ては1945年(昭和20年)10月の連合国軍最高司令官総司令部の命令により釈放されている[4]。当時、府中刑務所に拘禁されていた共産党員の志賀義雄は、豊多摩刑務所には「」と呼ばれる監視部長がいたことを語っている[5]

1946年(昭和21年)3月22日、連合国軍最高司令官総司令部が接収し、連合国軍人軍属等の犯罪者の拘禁所となった。外塀の上には木製の回廊や見張所が作られるなど警戒態勢が強化される一方、各舎房にはスチームが備えられるなど待遇面は改善された。刑場も設けられ、接収が解除される前までに黒人22人、白人2人が絞首刑となった[6]

四万に及ぶ跡地は現在、平和の森公園および東京都下水道局中野水再生センターとなっている。研修所敷地内に監獄の表門が保存されており、2021年令和3年)に旧豊多摩監獄表門として中野区有形文化財となった。

沿革

  • 1910年明治43年)3月 - 市ヶ谷監獄が手狭になったため起工(設計:後藤慶二
  • 1915年大正4年)5月 - 竣工
  • 1916年(大正5年) - 豊多摩監獄と改称
  • 1921年(大正10年) - 豊多摩刑務所(英訳 Toyotama Prison)と改称
  • 1923年(大正12年)9月 - 関東大震災により獄舎が倒壊
  • 1931年昭和6年) - 復旧工事完了
  • 1941年(昭和16年)5月 - 拘禁所が設置。初代所長は東京控訴院検事であった中村義郎
  • 1945年(昭和20年)5月 - 東京大空襲により全焼、囚人は宮城刑務所へ送致
  • 1946年(昭和21年)3月 - GHQ接収、アメリカ陸軍第8軍刑務所(U.S. Eighth Army Stockade)として使用。接収の間、埼玉県浦和市の前橋刑務所浦和刑務支所跡の刑務所に「豊多摩刑務所」の名が冠されていた
  • 1956年(昭和31年)9月25日 - 連合国軍の刑務所として閉鎖。接収が解除されて日本側に返還される[7]
  • 1957年(昭和32年)7月1日 - 中野刑務所(英訳 Nakano Prison)と改称。同時に、埼玉県浦和市の豊多摩刑務所は浦和刑務所と改称
  • 1961年(昭和36年)1月21日 - 刑務官撲殺され2人の受刑者脱獄。刑務所敷地内にある共済組合学生寮の営繕工事に出役していた最中であった[8]。翌22日、2人とも逮捕された[9]
  • 1983年(昭和58年)3月 - 閉鎖

著名な収監者

正門

唯一現存する正門は司法省技師の後藤慶二による設計で1915年(大正4年)に完成した[15]。後藤は辰野金吾に師事した技師だったが1919年(大正8年)に亡くなったため、現存する唯一の後藤作品となっている[15]。正門は高さ約9 m、幅約13 m、奥行き約7 mで、日本独自の覆輪目地[16] [17] が用いられている[15]

2020年令和2年)10月、中野区は跡地の購入費を盛り込んだ補正予算案を同年11月開会予定の区議会定例会に提出する事・跡地に残る大正時代の希少なれんが造りの正門の保存方法も含め議論を進めていると伝えられた[1]

2021年(令和3年)6月4日、中野区有形文化財に指定された。

関連項目

脚注

  1. ^ a b “小林多喜二ら政治犯収監「旧中野刑務所」、正門を後世に…区が跡地購入へ”. 讀賣新聞オンライン. (2020年10月9日). https://www.yomiuri.co.jp/national/20201007-OYT1T50098/ 2020年10月9日閲覧。 
  2. ^ 「転向相次ぎ、被告の三割越す」『中外商業新報』1933年(昭和8年)9月5日(昭和ニュース事典編纂委員会『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p.550 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  3. ^ 「予防拘禁で非転向左翼を再収用」『朝日新聞』1941年(昭和16年)5月16日夕刊(昭和ニュース事典編纂委員会『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p.466 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ 「司法省、政治犯の即時釈放を通告」『毎日新聞』1945年(昭和20年)10月7日東京版(昭和ニュース事典編纂委員会『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p.317 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  5. ^ 「徳田ら、看守の暴力を訴える」『朝日新聞』1945年(昭和20年)10月8日(昭和ニュース事典編纂委員会『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p317 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  6. ^ 重松一義『日本刑罰史年表 増補改訂版』p.271 柏書房 2007年
  7. ^ 重松一義『日本刑罰史年表 増補改訂版』柏書房、2007年、293頁。ISBN 9784760131655 
  8. ^ 重松一義『日本刑罰史年表 増補改訂版』柏書房、2007年、298頁。 ISBN 9784760131655 
  9. ^ 昭和36年1月 中日ニュース No.367_3「脱獄24時間」 (YouTube). 中日映画社. 2 December 2015. 2019年11月19日閲覧
  10. ^ a b c d e f g h i j 中野区立中央図書館『収監の作家・文化人 -中野刑務所1910~1983-』地域の著作者紹介シリーズ、No.7、2011
  11. ^ 李奉昌の死刑執行『東京日日新聞』昭和7年10月11日夕刊(『昭和ニュース事典第3巻 昭和6年-昭和7年』本編p212 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1991年)
  12. ^ a b 風早八十二編『獄中の昭和史:豊多摩刑務所』青木書店、1986
  13. ^ 大川周明が仮出所『東京日日新聞』昭和12年10月14日夕刊(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p133)
  14. ^ 政治犯釈放”. 日本ニュース 第258号、日本映画社・日本映画新社. NHKアーカイブス (1945年11月7日公開). 2023年7月22日閲覧。
  15. ^ a b c 小林多喜二らも収監された旧中野刑務所…唯一現存する正門を曳家で移築へ 区が保存方針転換”. 東京新聞 (2021年2月14日). 2021年2月14日閲覧。
  16. ^ Focus2 職人技”. KAJIMAダイジェスト > February 2013:特集「人と振り返る5年半 ~東京駅丸の内駅舎保存・復原工事~」. 鹿島建設 (2013年2月). 2025年3月26日閲覧。
  17. ^ タイル工事 (覆輪目地) Beaded mortar joint for brick works”. 東京駅丸の内駅舎保存・復原工事 動画集 Restoration and Preservation of Tokyo Station Marunouchi Building. 鹿島建設. 2025年3月26日閲覧。

参考文献

外部リンク





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