おおすぎ‐さかえ〔おほすぎ‐〕【大杉栄】
大杉栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 03:48 UTC 版)
大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年〈明治18年〉1月17日 - 1923年〈大正12年〉9月16日)は、日本の無政府主義者、思想家、作家、ジャーナリスト、翻訳家、社会運動家。エスペランティスト、自由恋愛主義者でもあった。
- ^ 1876年(明治9年)の第2次府県統合によって香川県・松山県・宇和島県が統合され、1888年(明治21年)まで愛媛県という1つの県だった。
- ^ a b 村上 1925, p.230
- ^ 中村彝の次兄・中村中と恋仲となったと言われるが。中は器械体操の授業で胸を強打したのが原因で急逝している。
- ^ 大杉 1923, pp.110-134
- ^ 村上 1925, p.231
- ^ 大杉 1923
- ^ 『官報』第6610号、明治38年7月13日、p.552
- ^ 『東京外国語学校一覧』には卒業後の職業としてエスペラント学校教師とある。『東京外国語学校一覧 従明治39年至明治40年』東京外国語学校、1906年11月30日、100頁。NDLJP:813025/57。
- ^ 平民書房で行われていた金曜会に対して警察が解散を命じたことに反発し、堺が平民書房の2階から群衆に向けて警官の迫害を訴えた事件。
- ^ 文学者・堀成之の娘で、堺の妻の妹にあたる。
- ^ 神奈川県葉山町にあった旅館で、現在は「日影茶屋」の屋号で日本料理店として営業している。【老舗あり】神奈川県葉山町 日影茶屋/葉山とともに歩む名店『産経新聞』朝刊2018年8月6日(2018年10月18日閲覧)参照。
- ^ 市原正恵「もうひとりの明治社会主義者――深尾韶の生涯」『思想の科学』第75巻、思想の科学社、1977年、83-97頁。
- ^ のち改名して「幸子」。
- ^ のちに改名して「笑子」。
- ^ のちに改名して「留意子」。
- ^ のちに改名して「栄」。
- ^ 誕生前に悪魔と言われたことを逆手にとって命名したもの。大杉は溺愛した。
- ^ 大杉の妹の長男で、宗一の墓は名古屋の日泰寺にある。
- ^ 「無名碑の墓石山中に」『読売新聞』2023年9月9日九州版27面
- ^ “静岡)大杉栄らの墓前祭、色とりどりのバラ献花”. 朝日新聞DIGITAL (2019年9月16日). 2023年9月12日閲覧。
- ^ “「権力の横暴は忘れない」甘粕事件から100年 静岡で最後の墓前祭”. 西日本新聞 (2023年9月17日). 2023年9月18日閲覧。
- ^ 駄場裕司『後藤新平をめぐる権力構造の研究』(南窓社、2007年)223頁。
大杉栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 08:58 UTC 版)
思想家、社会活動家。入籍はしないまま、野枝との間に家庭を持つ。甘粕事件で野枝とともに扼殺された。
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大杉栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:18 UTC 版)
らいてうからもぎ取るようにして始めた『青鞜』の編集だったが、野枝も無政府主義に傾倒して大杉栄と行動をともにするようになったことから、これを一年余りで放棄し大正五年(1916年)の二月号を最後に無期休刊としてしまう。 1916年4月、辻と離別。家族と仕事を捨て、翌月からアナキズム運動の中心人物であった大杉と文通を開始する。秋に同棲し、大杉には内妻の堀保子(堺利彦の死別した最初の妻:美知の妹)のほかに東京日々新聞(東京日日新聞)記者の神近市子という愛人もおり、苦し紛れの「自由恋愛論」は批判の対象となっていた。ここに野枝が参入して四角関係になり、市子が11月に葉山の日蔭茶屋という旅館の一室で、大杉を刺して瀕死の重傷を負わせるという「日蔭茶屋事件」が起こった。市子は大杉へ経済的援助を与えていたため生活は困窮を極めた。この件もあり『青鞜』は廃刊した。 翌年、大杉は内妻の保子と離別、市子は大杉に対する殺人未遂罪で入獄した。「多角恋愛」で勝利した野枝は9月に長女を出産、周囲からの「悪魔」呼ばわりを逆手に取って魔子と命名した(のち眞子に改名)。貧乏のうえ、官憲に追われ監視される生活ながら大杉との生活は充実し、1918年に『文明批評』、翌年に『労働運動』を二人で創刊。『クロポトキン研究』『貧乏の名誉』『二人の革命家』など共著も多い。やがて次女・エマ(のち幸子に改名)、三女・エマ(のち笑子に改名)、四女・ルイズ(のち留意子、さらにのち本人はルイと名乗った)、三男(大杉の長男)・ネストル(のち栄に改名)の5人が生まれた。その間に『婦人労働者の覚醒』を執筆。二人目の子を生んだ直後には『解放』1920年4月号で結婚制度を否定する『自由母権の方へ』を発表、戦後ウーマンリブの結婚制度否定を50年早く提起した。1921年の普通選挙を前に結成された社会主義の婦人団体赤瀾会にも山川菊栄らと参加した。
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