ヘイマーケット事件
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ヘイマーケット事件(Haymarket affair)は、1886年5月4日にアメリカ合衆国シカゴ市で発生した暴動。後に国際的なメーデーが創設されるきっかけとなった事件。
事件に至る経緯

- 5月1日:八時間労働制を求める労働者のストライキとデモが発生[2]。
- 5月3日:ストライキを行っていた労働者4名が警官により射殺される[2]。
- 5月4日:夜、シカゴ市内のヘイマーケット広場で抗議集会が開かれる[2]。解散を求める警察側との間で爆発物を使用した衝突が発生し、警察側7名、労働者側4名の死者を出す[2]。
裁判
逃亡中の1人を含めたアルバート・パーソンズら9人のアナキストが起訴され、6月21日から裁判にかけられた。被告人らは皆が無罪を主張したが、検察側は被告人らが共同謀議の末に全シカゴを爆破すると決め、5月4日の爆弾テロに至ったと主張した。しかし、裁判では共同謀議の存在は立証できず、爆弾を投げた実行犯が誰であるかさえ特定できなかった。しかし、判事は陪審団に対して、被告人らが過去に暴力行為を推奨してきた以上、爆弾を投げたのが誰であるにせよ、被告人らは責任を逃れられないと語った。その後の上告審でも判決が覆ることはなかった。

1887年11月10日の朝に死刑囚の1人ルイス・リングが自殺し、同日夕方にイリノイ州知事リチャード・J・オグルズビーがサミュエル・フィールデンとマイケル・シュワブを無期懲役に減刑した。翌11月11日、4人の死刑囚は処刑された。
処刑された死刑囚のうち、ジョージ・エンゲルとアドルフ・フィッシャーは絞首刑が執行される直前に「アナーキー、万歳!」と最後の言葉を残した。
その後
事件から7年が経過した1893年6月26日、イリノイ州知事ジョン・ピーター・オルトゲルドは、被告人らが疑う余地なく無罪であり、処刑された4人は冤罪であったと認め、獄中に残されていた3人の囚人を恩赦して釈放した。しかし、この恩赦により政敵に攻撃され、1896年イリノイ州知事選挙で落選した。
事件の引き金となったストライキ・デモの発生日である5月1日は、1889年に第二インターナショナルによりメーデーとして設定された[2]。一方、アメリカでは暴動の記憶を再び呼び起こしかねないとして、9月の第一月曜日をレイバー・デーとして設定している。
出典
参考文献
- ハワード・ジン 著、富田虎男、平野孝、油井大三郎 訳「1886年の蜂起」『民衆のアメリカ史 上巻』明石書店、2005年、485-493頁。 ISBN 978-4-7503-2055-7。
- 小此木真三郎『フレームアップ』岩波書店〈岩波新書(黄版) 234〉、1983年。 ISBN 978-400420234-9。
関連項目
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