編集責任者の地位、そしてその他の文学の追究
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「ウィリアム・ディーン・ハウエルズ」の記事における「編集責任者の地位、そしてその他の文学の追究」の解説
1865年にアメリカに戻りマサチューセッツ州ケンブリッジに落ち着くや否や、ハウエルズは『アトランティック』や『ハーパーズ・マガジン(英語版)』などいろいろな雑誌に寄稿した。1866年1月には、上述のフィールズがアトランティック誌の副編集者をしないかと打診してきた。ハウエルズは給料がもっと高くなるよう交渉し、交渉がうまく行くと、フィールズが仕事を厳しく監視し管理することに不満があったにも関わらず、この話を受けることにした。5年後の1871年には編集責任者となり、1881年までその地位にあった。1869年には、彼はマーク・トウェインに初めて出会い、この出会い以降、2人の友情は長く続いた。しかし、ハウエルズの文学上の様式――写実主義――の発展にとってよりいっそう重要だったのは、ジャーナリストのジョナサン・バクスター・ハリスン(英語版)との友情だった。ハリスンは、1870年代に、平凡なアメリカ人の生活に関する一連の記事をアトランティック誌に寄稿していた。また、ハウエルズは、1870年から71年にかけて、ローウェル研究所(英語版)で、12回にわたって「今世紀のイタリア詩人」と題する講義をおこなっている。 彼は、自分の最初の小説である「Their Wedding Journey」を1872年に出版した。しかし、彼の文学上の名声が一気に高まったのは、1882年に写実的小説「A Modern Instance(現代の一例 邦題:『近ごろよくあること』)」を出版した時であった。小説は結婚生活の崩壊を描いたものだった。1885年の小説「The Rise of Silas Lapham(サイラス・ラパムの出世)」は、彼の著作の中で最も名が通ったものとなった。この小説は、アメリカ人の起業家が絵画の商売で勃興しそして没落していく様子を描いている。ハウエルズの社会に対する視点は、「Annie Kilburn」(1888年)や「A Hazard of New Fortunes(運命の浮沈)」(1890年)、「An Imperative Duty(必須の務め)」(1891年)といった小説でも明確に表現されている。彼はとりわけヘイマーケット事件の裁判の結果に憤っていた。この事件を受けて、A Hazard of New Fortunes の中で、同様の暴動を描いている。また、ヘイマーケット事件に関与したとされる容疑者達の裁判に対して公式に抗議の意を表明している。出版の場でも、自分の小説においても、彼はそのときどきの社会問題を告発するために、人々の耳目を集めることを忘れなかった。ハウエルズは1898年にはアメリカ反帝国主義連盟に加わり、アメリカ合衆国のフィリピン併合に反対した。 ハウエルズの詩は、1873年と1886年に集められ、「Stops of Various Quills」という表題で一巻にまとめられて1895年に出版された。彼はアメリカ写実主義の流れの先導者であり、ロシア人を通してバルザックから写実主義を学んだものの、他の種類の小説には、それがどんなものであれほとんど共感することもなかった。しかし、それでも、ハウエルズは新しい作家達、例えば、スティーヴン・クレイン、フランク・ノリス、ハムリン・ガーランド(英語版)、ハロルド・フレデリック(英語版)、エイブラハム・カーハン、サラ・オーネ・ジュウェット(英語版)、ポール・ローレンス・ダンバー(英語版)といった人達をたびたび励ましていたのである。というのも、彼は彼らの中に、新しいアイデアや小説上の新しい技法を見出していたからである。
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