クロンシュタットの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/22 13:33 UTC 版)
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クロンシュタットの反乱 Кронштадтское восстание |
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クロンシュタットに向けてフィンランド湾の氷上を突撃する赤軍兵士。 |
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戦争:クロンシュタットで起きた水兵たちによる反政府蜂起 | |
年月日:1921年2月28日から3月16日[1] | |
場所:クロンシュタット | |
結果:赤軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
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戦力 | |
第一次攻撃 11,000人 第二次攻撃 17,961人 |
第一次攻撃 10,073人 第二次攻撃 25,000~30,000人 |
損害 | |
戦死:不明。約1,000人[要出典]。フィンランドへの逃亡中、数千人死亡[2]。事件後2103人が死刑、6459人が投獄[3] | 4000人以上の戦傷者[要出典] |

クロンシュタットの反乱(クロンシュタットのはんらん、ロシア語:Кронштадтское восстание)とは、1921年2月28日から3月16日に赤軍に鎮圧されるまでペトログラード西方の軍港都市クロンシュタットで起きた水兵たちによる反政府蜂起[4]。
背景
バルト海艦隊の拠点であるクロンシュタットの水兵たちは、当初はボリシェヴィキがロシア革命を進める上での重要な支持者であった。クロンシュタットの水兵たちは革命時に冬宮を砲撃したアヴローラ号の乗組員で、革命の英雄であり、ロシア内戦では赤衛兵となり、レーニンも水兵を頼りにしていた[5]。
しかし、水兵たちは、ボリシェヴィキの独裁や、言論弾圧、過剰な赤色テロルに対して疑念をいだくようになった。
蜂起
1921年2月28日、独裁化するボリシェヴィキ政権に対し、クロンシュタットの水兵たちは、新しい議会への自由選挙、党から独立した自由労働組合、新聞・出版の自由、赤色テロルを実行していたチェーカーの廃止などの民主的改革を決議した[1]。
翌2月29日、16000人の水兵がクロンシュタットの兵舎街の中心部でデモ集会を開き、決議がよみあげられた[1]。
戦艦ペトロパブロフスクの船上で開かれた乗組員集会において、言論・集会の自由や、農業や家内工業における統制の解除、すべての政治犯の釈放、すべての勤労人民の配給量の平等化などを要求する15項目の決議を採択した[要出典]。
水兵の小グループが印刷工場で新聞「クロンシュタット報知」を発行した[6]。彼らは武装蜂起を計画したわけではなかったが、レーニンはこれを脅威とみて、引き下がるか殲滅かだと迫ったが、新聞を発行し続けた[6]。
ボリシェヴィキによる鎮圧
水兵たちが蜂起するに及び、レーニンはトロツキーに「これは反乱であり、彼らに慈悲をかけてはならない。殲滅しなければならない。」と命じた[6]。モスクワ政府は赤軍部隊を派遣する。
3月4日、トロツキーはトゥハチェフスキー麾下の赤軍2万とともに到着した[6]。
翌3月5日、無条件降伏を最後通告[6]。21歳の水兵の指導者ステパン・ペトリチェンコは「われわれはボリシェヴィキを権力の座につけた。そのことを忘れたのか」と訴えた[2]。
2日後の3月7日、沿岸の砲台が海軍基地を攻撃した[6]。
当時、ロシア共産党政治局員の一人でペトログラード・ソビエト議長だったジノヴィエフは、ただちにクロンシュタットに軍を送り、トゥハチェフスキーの指揮の下で部隊を編成するが、赤軍の兵士が反乱軍に同情して攻撃命令を拒否すると鎮圧軍は従わない兵士を形だけの裁判で銃殺。さらに、チェーカーが兵士の傍に付き添い戦闘中に逃亡した兵士は射殺する命令を出した(督戦隊)。
激しい攻防のあと、3月16日の最後の戦闘を生き延びた水兵はほぼ全員即刻処刑された[2]。
赤軍は2度にわたる総攻撃で反乱を鎮圧した。当時、軍事人民委員・最高軍事会議(9月以降は共和国革命軍事会議)議長だったトロツキーは「クロンシュタットは鉄の箒(ほうき)で一掃した」と発表した。
犠牲者
反乱側の死傷者の正確な数は不明である。歴史学者ステファヌ・クルトワとニコラ・ヴェルトによれば、鎮圧後2103人が死刑の判決を受け、6459人が投獄された[3]。
8000人の反乱軍兵士がフィンランドに亡命した。しかし、逃亡中、凍結した湖で数千人が死んだ[2]。ペトリチェンコら100人はフィンランドに逃亡した[2]。その後、多くの兵士は帰国したが抑圧を受けた。
赤軍側は4000人以上の戦傷者を出した[要出典]。
影響
十月革命の拠点で起きたこの事件の影響は大きく、ネップ(新経済政策)への政策変更を早めたとされる。
名誉回復
ソ連崩壊後の1994年1月10日、ボリス・エリツィン大統領の布告により、犠牲となった、クロンシュタットの反乱の参加者は名誉回復された。
脚注
- ^ a b c セベスチェン 2017, p. 下286.
- ^ a b c d e セベスチェン 2017, p. 下288.
- ^ a b ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書 -犯罪・テロル・抑圧 ソ連篇』外川継男訳、恵雅堂出版、2001/11
- ^ セベスチェン 2017, p. 下286-288.
- ^ セベスチェン 2017, p. 下285.
- ^ a b c d e f セベスチェン 2017, p. 下287.
参考文献
- 『クロンシュタット1921』アヴリッチ/著 現代思潮新社
- セベスチェン, ヴィクター 三浦元博・横山司訳 (2017), レーニン 権力と愛, 白水社
関連項目
クロンシュタットの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 14:10 UTC 版)
「クロンシュタット」の記事における「クロンシュタットの反乱」の解説
詳細は「クロンシュタットの反乱」を参照 20世紀初頭には革命運動が昂揚し、1905年の革命では、帝室に対する水兵たちの大きな反乱が起こった。 1921年3月7日、クロンシュタットの水兵たちが独裁化しつつあったボリシェヴィキ政権に対して、「全ての権力をソヴィエトヘ!」というスローガンの下、自由選挙の保障、言論・出版の自由、政治犯の釈放、個人の財産の所有権などを要求して蜂起した。当時、ロシア共産党政治局員の一人でペトログラード・ソヴィエト議長だったジノヴィエフは、ただちにクロンシュタットに軍を送り、トゥハチェフスキーの指揮の下でこの蜂起を鎮圧した。これは、ボリシェヴィキ政権のソビエト国内で、最後にして最大規模の反政府反乱であった。 (「クロンシュタット蜂起」鎮圧の指揮を執ったのはトロツキーとする俗説があるが誤り。当時トロツキーは南部戦線で指揮を執っていた。しかし、トロツキーは後年、スターリンによる追放後も「クロンシュタット蜂起はなんらの展望も持たない反革命蜂起であった。私はソヴィエト政府による鎮圧を擁護するし、その意味においてこの鎮圧の全責任を負う」と述べている。)
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