1905年の革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:49 UTC 版)
「ロシア帝国下のグルジア」の記事における「1905年の革命」の解説
1890年代と1900年代初期のグルジアではストライキが頻発していた。平民は未だに不満を持ち、社会民主主義者は農民と労働者の支持を得た。この時点でも、グルジアの社会民主主義者は自らを全ロシアの政治運動の一部と見ていたが、1903年にベルギーのブリュッセルで開催されたロシア社会民主労働党第2回大会(英語版)によりロシア社会民主労働党はメンシェヴィキとボリシェヴィキという和解が不可能な二派に分裂した。1905年までに、グルジアの社会民主主義者は圧倒的にメンシェヴィキとその首領ノエ・ジョルダニアを支持したが、若いイオセブ・ジュガシヴィリ(一般的にはヨシフ・スターリンとして知られる)などごく一部のグルジア人はボリシェヴィキを支持した。 1905年1月、ロシア軍がサンクトペテルブルクでデモ隊に発砲して少なくとも96人が死亡した血の日曜日事件でロシア帝国が一時危機に陥った。事件の報せはロシア第一革命と呼ばれた全国規模の反政府運動につながり、グルジアでもメンシェヴィキが直近でグリアにおいて大規模な農民蜂起を組織した(グリア共和国(英語版)も参照)こともあり社会不安が蔓延した。1905年のグルジアは反乱とストライキの連続であり、ロシア政府は譲歩とコサックによる鎮圧で対応しようとした。12月、メンシェヴィキはゼネストを呼びかけるとともにコサックへの爆弾テロを推奨、コサックが強める結果となった。しかし、メンシェヴィキは暴力に走ったことで政治上で同盟者であったアルメニア人など多くの人々に見放され、ゼネストは失敗に終わった。やがて、マクスード・アリハノフ=アヴァルスキー(ロシア語版)将軍率いる軍勢が1906年1月に到着したことで反乱は完全に鎮圧された。 1906年から第一世界大戦の勃発まで、グルジアはより自由主義的な副王イラリオン・イヴァノヴィチ・ヴォロンツォフ=ダシュコフ(英語版)伯爵によって統治されていたため、平和な日々が続いた。メンシェヴィキも1905年末の惨事を反省し、ボリシェヴィキと違って今や武装蜂起を否定した。1906年、ロシアのドゥーマ選挙が行われ、メンシェヴィキは大勝してグルジアに割当られた議席の多くを勝ち取った。ボリシェヴィキはチアトゥラのマンガン鉱山以外では支持が少なかったが、1907年にトビリシで武装強盗を行ったことで知名度を上げた。その後、スターリンたちは南カフカースにおけるボリシェヴィキの唯一の拠点であるバクーに移動した。
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