1905年の衝撃
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「ディミトリー・メレシュコフスキー」の記事における「1905年の衝撃」の解説
ロシア帝国海軍が大日本帝國海軍に敗北したのが引き金となり、1905年革命が発生した。これをメレシュコフスキーは、信仰改革の前触れとなる宗教的な出来事と見て、自分こそはその預言者であると言い出した。とりわけパリ滞在中の2年間に内乱の熱烈な支持者となり、革命についての詩をふんだんに書いている。 『新しい径』の元・編集主幹ゲオールギイ・チュルコフがニコライ・リャブシンスキーの『金羊毛(Золотое руно, Zolotoe runo)』の編集に復帰している頃、アレクサンドル・ブロークは同誌にメレシュコフスキーの「心理学的な急進主義」への批判を寄せていた。メレシュコフスキーは最早チュルコフの雑誌に素材を提供してはいなかった。その紙面はだんだんと――ある程度まではチュルコフの形而上学的な見方に基づいて――チュルコフの「神秘主義的アナキズム」の広報誌と化していたからであった。 その後の著作に、『皇帝パヴェル』(1908年)、『ロシア皇帝アレクサンドル1世』(1911年)、『デカブリスト』(1918年)がある。メレシュコフスキーの哲学史観は、『キリストと反キリスト』(1895年~1905年)と『反キリストの王国』(1922年)に集約される。批評文の中では、研究書『トルストイとドストエフスキー』(1902年)が最も名高い。 十月革命の後でメレシュコフスキーは再びパリに落ち延び、その地で仮借のないボルシェヴィキ非難を続けた。社会革命党のボリス・サヴィンコフが2~3万の(主に俘虜からなる)ロシア兵を率いてモスクワに進軍する際、メレシュコフスキーは、妻のギッピウスとともにサヴィンコフとポーランドで合流し、ピウスツキがロシアを解放するための救世主的な使命を全うしてくれようと宣言した。 メレシュコフスキーは1914年~1915年、1930年~1937年、計10回ノーベル文学賞候補にノミネートされたにもかかわらず、ヒトラー支持の姿勢のため、ついに受賞に至らなかった。
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