ノーベル文学賞候補
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1958年には谷崎潤一郎とともにノーベル文学賞の候補者(候補41人中)になった。その後、1960年から1968年までの間も毎年候補になったことが明らかになっている。推薦者は、インド文学研究者の辻直四郎が7回(1958年・1960年・1962年・1964年・1965年・1966年・1967年)、日本文藝家協会(1961年)と日本学士院(1963年)が各1回である。 選考資料に残る委員のコメントでは、1958年・1960年は「翻訳作品や評価のための資料が少ない」ことが記され、1961年にはそれらに加えて「もし現在の資料の中から彼ら(引用者注:西脇と谷崎)の作品を評価するとすれば、今のところ賞に値するとは言えない」とされていたが、1962年には「このノーベルアカデミーの水準に達しているとは思えない」と翻訳や資料不足の指摘なく低評価を下され、1963年には「ドナルド・キーン教授からの意見に従い、西脇をこれ以上推薦しないことにした」とあり、選考側が日本人文学者について参考としていたキーンが西脇を評価していなかったことが明らかになっている。
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ノーベル文学賞候補
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 05:07 UTC 版)
1981年(昭和56年)10月、井上靖がノーベル文学賞の候補との報道が流れ、世田谷の井上宅に報道陣が殺到した。井上は報道陣を自宅の応接間に招き入れ、受賞者が発表されると、集まった一同と残念の杯を上げた。以降、毎年ノーベル文学賞発表の日になると、集まった報道陣を応接間に招き入れて、残念会の酒宴「ノーメル賞」が行われるようになった。 報道は年を追うごとに過熱したが、当の井上は「天から石が降ってきて、世界の何十億人の誰かひとりに当たるというのだから、当たると考えるほうがおかしいし恥ずかしいことだ」として、自らの受賞にはまったく期待も望みもしない態度であった。家族からは、賞を期待しているように思われるから報道陣を家に入れないほうがいい、という意見もあったが、相手にとって嫌なことでも取材せざるを得なかった新聞記者時代の経験から、「仕方ないことだ」として、集まる報道陣に対しては一定の理解を示し、丁寧な応対をつづけた。 当時、井上が実際に候補に挙げられているかどうかは不明であったが、2020年(令和2年)1月、井上が1969年(昭和44年)の候補に実際に挙げられていたことが判明した。 また、それ以前の2012年(平成24年)3月、ノーベル委員会のペール・ベストベリー委員長が、読売新聞の取材に対して「井上靖が非常に真剣に討論されていた」と回答している。
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