象徴派詩人として
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「エミール・ヴェルハーレン」の記事における「象徴派詩人として」の解説
1891年8月、同じく芸術家であったマルト・マサンと結婚。この年に出された『わが途上に現れしもの』は結婚記念詩集と呼ぶべき内容の詩集であった。 1898年にはフランスへ移り、パリ郊外、16区のサン=クルーへ転居。フランスへ転居後の彼の創作活動は旺盛で、詩集のほか劇作にも手を出し、戯曲『夜明け』をものした。 この結婚と渡仏の前後、ヴェルハーレンは『幻覚にとらわれた田園』(1893年)・『幻想の村々』『触手ある都市』(1895年)の「社会主義三部作」と呼ばれる三部作をものした(ただし彼自身は社会主義者ではなかった)。 これらの詩集においてヴェルハーレンは「都市」と「農村」を対峙させ、「農村」の血肉を食らって生きる「都市」とそれによって荒廃する「農村」をおどろおどろしく描き出し、自然主義から脱して独自の境地を切り開いた。これによってヴェルハーレンの詩は、象徴派が勢力を持っていた当時のフランス詩壇で名声を得ることとなる。 このように人間社会への絶望を書く一方で、ヴェルハーレンは人間の創造力・生命力を讃美して強い期待を寄せ、『生活の相貌』(1899年)・『騒擾の力』(1902年)・『無量の壮麗』(1906年)・『至上律』(1910年)などの詩集では個人の矮小な世界観を超越した汎ヨーロッパ的な視点からの人間讃美を行っている。また妻マルトとの愛の時間を詠った『明るい時』(1896年)・『午後の時』(1905年)・『夕べの時』(1911年)も、先のものと視点は異なるが人間讃美の詩である。 世紀末的なニヒリズムや退廃的雰囲気を超越して人間讃美という境地に達したヴェルハーレンの詩は、さらにヨーロッパ中に知れ渡ることになった。詩集は20あまりの言語に翻訳され、彼自身もヨーロッパ中を講演に飛び回ることになる。 1909年、1912年、1915年の計3回、ノーベル文学賞候補にノミネートされた。ヴェルハーレンの名声の高さを物語るできごとである。
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