象徴界の参入と去勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 05:23 UTC 版)
「現実界・象徴界・想像界」の記事における「象徴界の参入と去勢」の解説
人は、胎児として子宮の内部に浮遊している状態では、言葉を持つ必要がない。したがって、言語活動は発生しない。さらに、生まれてからも原初の状態を象徴的にいうならば、乳児の口には母の乳房が詰まっている。これは乳児の必要をすべて満たしているから、言葉を発して何かを求める必要もないし、そもそも口に乳房が詰まっているから言葉の発しようもない。一方、これは乳児にとっては全世界を支配しているかのような快楽の状態である。これをラカンは享楽(仏: jouissance)と呼ぶ。 フロイトは、この象徴界や、以下に記述する想像界を幼児と母親の関係で分かりやすく説明している。幼児は、最初の段階においては、常に母親が存在するので(あくまで理論である)、言葉を喋らなくても何かを想像しなくても、すべてが満たされている。したがって、この時点では、象徴や想像は存在しない。 だが、やがて乳児の口から母の乳房が去ると、そこに欠如(もしくは不在、存在欠如とも)が生まれる。欠如が生まれて初めて、乳児は母を求めるなり、乳を求めるなり、「マー」などと叫びをあげる。これは言語 - より正確には言語活動(仏:langage) - の発生である。 言語は、母親に何らかの欲求や訴えを伝えるために使用される。そこから、自然と子供は、象徴界、すなわち言語活動の使用へと参入せざるを得なくなる。幼児と母親の分離から、幼児は、何かを訴えて母親を呼ばなければならないような状況に陥る。そして、このような状態から、幼児の象徴界=言語活動は形成されるのである。 こうした象徴的な意味での言語の発生は、人間が人間となるために、どうしても通らなければならない段階である。言語とは、人間が自分の頭に思い描いているもの、すなわち想像的なもの(仏:l'Imaginaire)を他者と共有しようとしたり、他者に伝達しようとしたりするために用いる象徴的なもの(仏:le symbolique)である。 もっと簡単に言えば、子供は母親に対して何かを訴えかける最初の方法として言語を使うのである。その言語は、社会的に共有されているが故に大文字の他者であるし、またその言葉自体は象徴である。したがって、言語は象徴界のものであると言われている。 一方、社会は、さまざまな人間がせめぎあう場である。そのため、社会は、無数の掟・契約・約束事で出来ている。そして、こうした掟は、象徴的な意味で言語で書かれている。たとえば、「不文律」や「黙契」といった概念ですら、人間が言語を持たなければ存在することができない。また、掟を与えるのは、象徴的な父である。したがって、上記の意味においては、象徴界とは掟であり、父であり、言語であるといった図式が成り立つ。 「言語が掟や父である」という考え方は分かりにくいかもしれない。簡単に言えば、私たちは社会に参入するとき、その社会独自の言葉を使用して、それを駆使しなければ生きていけない。そして、その根底には、自分の欲求や要求や欲動が満足していないからこそ、言葉を使って社会に参入しようとする意欲がある。この点は、「母親からの分離」と「父親からの脅し」という二つの契機が必要である。言語によってでしか、私たちは社会や社会にいる他人に何かを訴えることはできない。また、その社会がそもそも欲動抑圧的であることを考えると、象徴界が掟であり、父であり、言語であるという図式も分かりやすくなる。
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