1906 - 1935: 地方の巨匠
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ヴェッツは1906年にエアフルトの音楽協会で支配人に任用された。この町が大層気に入った彼はその後生涯をエアフルトで過ごすことになる。この時までにヴェッツは2度にわたってオペラの作曲を試みていたが、出版された作品はほとんどピアノ伴奏付き歌曲のみであった。オペラは『Judith』作品13と『Das ewige Feuer』作品19の2作品で、彼は自ら両オペラのリブレットも書いていた。1幕の戯曲『Das ewige Feuer』は1907年にハンブルクとデュッセルドルフで上演されたものの、評判は芳しくなかった。1909年にアルトゥール・ニキシュがライプツィヒで取り上げた管弦楽曲『Kleist-Ouvertüre』作品16は、よりよい評価を受けている。 以降の数年間、ヴェッツは音楽の専門家として活動する。エアフルトの町の音楽院で教鞭を執り、様々な合唱団で指揮を行って自身の技術に磨きをかけた。また、無伴奏や管弦楽伴奏つきの合唱作品の作曲も手がけた。この時期に書かれた楽曲で有名なものには『Gesang des Lebens』作品29、ヘンダーリンの詩による『Hyperion』作品32、『詩篇第3篇』作品37などがある。しかし、この時にはまだヴェッツの語法は成熟しきっていなかった。1917年にはヴァイマルの公爵の音楽大学で音楽史と作曲の講師(准教授)、1920年に教授となる。1917年には最初の交響曲となる交響曲第1番ハ短調 作品40を完成させている。交響曲第2番イ長調 作品47は1919年、交響曲第3番変ロ短調 作品48(変ロ長調とされることもある)は1922年に続いている。 ヴェッツは並行してヘ短調(作品43)とホ短調(作品49)の2つの弦楽四重奏曲に取り組んだ。その後は合唱作品の作曲に専念する。こうして生まれたのが、おそらく彼の最も重要な作品である『レクイエム ロ短調』作品50と『古いドイツの詩に基づくクリスマス・オラトリオ』作品53であった。他にヴェッツはブルックナー(1922)、リスト(1925年)、そしてベートーヴェン(1927年)に関する論文も著している。 1920年代半ばになるとヴェッツはエアフルトに数多くの音楽団体を組織し、自ら率いて自作を演奏した。1925年にエアフルト音楽協会の公的な理事職から退いたものの、町の音楽界の中心的人物であり続けた。1928年にはヴェッツとイーゴリ・ストラヴィンスキーがプロイセン芸術アカデミーの国外会員に選出されている。まもなくベルリン芸術アカデミーに招聘されると同校でも指折りの作曲の講師に成長していった。しかしながら、エアフルトとヴァイマルでの職を選んだ彼は同校の仕事を辞している。生涯最後の数年間にはヴァイマルの大学の仕事に割かれる時間が増加していっていたが、それでも作曲は継続して行っていた。ヴェッツ最後の大作は1933年に完成したヴァイオリン協奏曲 ロ短調 作品57である。翌1934年にはエアフルトの町から音楽代表者として指名を受けた。 同年10月、ヴェッツは肺癌と診断を受けた。彼はヘビースモーカーであった。ひどく衰弱しながらも衰えぬ創作への衝動に駆りたてられ、オラトリオのあらすじの執筆に取り組んだ。ゲーテのテクストに基づく『Liebe, Leben, Ewigkeit』である。ヴェッツはこれを敬愛する詩人の記念碑にしたいと考えていた。しかし、作品は彼の死により未完成のまま残されることになった。交響曲第4番も断片の状態で残されており、遺稿の中からは弦楽四重奏曲第3番も書きかけの状態で発見されている。ヴェッツが没したのは1935年1月16日のエアフルトで、59歳だった。遺言により、ゲーテに基づくオラトリオの完成はヴェッツが最も優秀な弟子だと考えていた作曲家のヴェルナー・トレンクナーに託されることになった。しかし、トレンクナーは民事的な紛争のために作品を完成させることが出来ず、以降スケッチは紛失したままとなっている。
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