中ソ紛争
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1929年の中ソ紛争(ちゅうそふんそう、中国語: 中東路事件、ロシア語: Конфликт на Китайско-Восточной железной дороге(中国東方鉄道紛争)、あるいは、Дальневосточный конфликт(極東紛争))は、中東鉄道を巡りソビエト連邦と中華民国の間で起こった軍事衝突である。中東路事件[3]、奉ソ戦争とも呼ばれる。北伐を終えて統一された中国にとって外国との初めての交戦であった[3]。紛争の発端は、中ソの共同管理下に置かれていた中東鉄道の利権を、中国が実力で回収しようとしたことにある。ソ連は自衛を理由に軍を満洲国境地帯に送り込み、張学良軍を粉砕し全ての権益を回復した。その後原状復帰を内容とする停戦協定が結ばれてソ連軍は撤収したが、中国側は協定の無効を主張して再交渉を要求し続けた。
注釈
出典
- ^ Bisher (2005), p. 298.
- ^ Kotkin (2017), p. 30.
- ^ a b c サンケイ新聞(1976年)、128頁。
- ^ 原暉之「シベリア・極東ロシアにおける十月革命」『スラヴ研究』第24巻、北海道大学スラブ研究センター、1979年、75-125頁、ISSN 05626579、NAID 110001240325。p=107 より
- ^ 斎藤良衛『最近支那國際關係』第112輯、國際聯盟協會〈國際聯盟協會叢書〉、1931年。 NCID BN11569302。NDLJP:1442760 。
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- ^ a b スラヴィンスキー(2002年)、154-157頁。
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- ^ スラヴィンスキー(2002年)、212-214頁。
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- ^ サンケイ新聞(1976年)、138頁。
中ソ紛争
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1929年7月にはソビエト連邦が満州に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍は撃破され、12月22日にハバロフスク議定書が結ばれてソビエト連邦の影響力が強まった。中華民国政府がソビエト連邦と交戦に力を注いでいるうちに中国共産党は中国各地で盛んに活動を行った。
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