中ソ和解と第二次天安門事件
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「鄧小平」の記事における「中ソ和解と第二次天安門事件」の解説
1986年12月、反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む総書記の胡耀邦・国務院総理の趙紫陽(いずれも当時)らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺した。1987年1月に政治体制改革をめぐって改革推進派の胡耀邦と対立し、胡を失脚させる。しかし、鄧は政治改革に全く反対だという訳では無かった。第一次国共内戦期から党に在籍し、「革命第一世代」と呼ばれた老幹部たちを、自身も含めて党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置をとった。ただし、鄧自身は党内序列1位には決してならなかったものの、党中央軍事委員会主席として軍部を掌握し、党中央委員を退いて表向きは一般党員となっても、2年後の1989年11月までこの地位を保持し続けた。1987年11月の第13期1中全会では「以後も重要な問題には鄧小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされたとされる。 1989年5月、中国を訪問したソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長と会談して関係正常化で一致し、中ソ対立を終結させた。しかし、生涯に3度の失脚(奇しくもうち2回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、民主化を推し進めたゴルバチョフと対照的に鄧小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた鄧小平が陳雲・李先念ら長老や李鵬国務院総理らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれる。イギリスの機密文書によると「200人の死が中国に20年の安定をもたらすだろう」と語ったと記録されている。 鄧小平は武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定した。武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民(当時は上海市党委員会書記)を党総書記へ抜擢し、同年11月には党中央軍事委員会主席の職も江に譲った。第二次天安門事件後には一切の役職を退くが、以後もカリスマ的な影響力を持った。影響力を未だ維持していた鄧小平は、1992年の春節の頃の1月18日から2月21日にかけて、深圳や上海などを視察し、南巡講話を発表した。経済発展の重要性を主張するのみならず、ペレストロイカによるソビエト連邦の解体などを例にとって「経済改革も和平演変をもたらす政治改革につながる」と主張する党内保守派に対して、これを厳しく批判した南巡講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。また、南巡講話では「中東には石油があるが、中国にはレアアースがある。中国はレアアースで優位性を発揮できるだろう」(中東有石油、中国有稀土、一定把我国稀土的優勢発揮出来)とも述べてハイテク産業や軍需産業に重要なレアアースの戦略的価値を重視し、当時世界の埋蔵量の8割も中国に存在していたとされるレアアースの大規模な生産を行って後に世界の9割も独占的に供給することになる路線を決定づけたとされる。以後、中国は急速な経済発展を進めることになった。
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