中ソ友好同盟時代とは? わかりやすく解説

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中ソ友好同盟時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:53 UTC 版)

中国の宇宙開発」の記事における「中ソ友好同盟時代」の解説

アメリカ合衆国朝鮮戦争中、使用による脅迫行った後、毛沢東はまだ建国したての中華人民共和国安全保障には核抑止力必要不可欠であると確信した。さらに、中華民国が「中国としての扱い受けていたこともあって、毛沢東中国世界大国になることを望んだ。 こうして、1955年1月15日開かれた中国共産党中央委員会会合で、毛沢東核兵器とそれに関連するミサイル含めた中国独自の戦略兵器開発宣言した中国核兵器計画コードネーム02」として扱われた。 「 我们不但要有更多的飞大炮,而且还要有原子弹。在今天这个世界上,我们要不受人家欺侮,就不能没有这个东西。 "我々は航空機大砲だけでなく、原子力爆弾も必要としている。今日この世界では、他国からの虐げ回避する手段無くして有り得ない。" 」 赤狩りによってアメリカから国外退去となった銭学森所長として、1956年10月8日国防部第5研究所(現:中国運載火箭技術研究院)が設立された。研究所中国初の弾道ミサイル開発始め計画1956年3月1日最初の「中国航空宇宙12ヵ年計画」として承認された。 1957年10月4日ソ連による人類初の人工衛星スプートニク1号打ち上げられた。毛沢東1958年5月17日共産党国民会議の場で、「581計画」を承認し建国10周年記念1959年までに人工衛星軌道上打ち上げる(我们也要搞人造卫星)ことによって、他の超大国同等存在になるべきだと決定した。この計画はまず観測ロケット発達させ、次に小型人工衛星打ち上げ最後に大型衛星打ち上げるという三段階によって達成される予定だった。 中国初のミサイル実験基地20基地建設1958年4月始まり同年10月20日には利用可能となっていた。 1950年代の中ソ関係が良好な間(中ソ友好同盟相互援助条約)、ソ連中国人学生育成やR-2ミサイルの提供など、中国への技術供に協力的であった中国初のミサイル1958年10月、R-2をリバースエンジニアリングして複製したミサイルであり、射程590 km重量は20.5 トン推進剤液体酸素アルコールからなった。なお、R-2も元々はソ連ドイツV2ロケット改良したのである中国初の観測ロケットT-7は1960年2月19日南匯区射場より打ち上げられ成功した。 しかし、ニキータ・フルシチョフスターリン批判対米政策などが原因で、毛沢東ソ連から徐々に距離を置き始めたそれまで友好的であった中ソ関係は一転して対立態となり(中ソ対立)、1960年対立後にソ連技術的援助突如無くなった

※この「中ソ友好同盟時代」の解説は、「中国の宇宙開発」の解説の一部です。
「中ソ友好同盟時代」を含む「中国の宇宙開発」の記事については、「中国の宇宙開発」の概要を参照ください。

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