中ソ友好同盟時代
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アメリカ合衆国が朝鮮戦争中、核使用による脅迫を行った後、毛沢東はまだ建国したての中華人民共和国の安全保障には核抑止力が必要不可欠であると確信した。さらに、中華民国が「中国」としての扱いを受けていたこともあって、毛沢東は中国が世界の大国になることを望んだ。 こうして、1955年1月15日に開かれた中国共産党中央委員会の会合で、毛沢東は核兵器とそれに関連するミサイルを含めた、中国独自の戦略兵器の開発を宣言した。中国核兵器計画はコードネーム「02」として扱われた。 「 我们不但要有更多的飞机大炮,而且还要有原子弹。在今天这个世界上,我们要不受人家欺侮,就不能没有这个东西。 "我々は航空機や大砲だけでなく、原子力爆弾も必要としている。今日のこの世界では、他国からの虐げを回避する手段は核無くして有り得ない。" 」 赤狩りによってアメリカから国外退去となった銭学森を所長として、1956年10月8日に国防部第5研究所(現:中国運載火箭技術研究院)が設立された。研究所は中国初の弾道ミサイルの開発を始め、計画は1956年3月1日に最初の「中国航空宇宙の12ヵ年計画」として承認された。 1957年10月4日にソ連による人類初の人工衛星、スプートニク1号が打ち上げられた。毛沢東は1958年5月17日の共産党国民会議の場で、「581計画」を承認し、建国10周年記念の1959年までに人工衛星を軌道上に打ち上げる(我们也要搞人造卫星)ことによって、他の超大国と同等の存在になるべきだと決定した。この計画はまず観測ロケットを発達させ、次に小型の人工衛星を打ち上げ、最後に大型の衛星を打ち上げるという三段階によって達成される予定だった。 中国初のミサイル実験基地、20基地の建設は1958年4月に始まり、同年10月20日には利用可能となっていた。 1950年代の中ソ関係が良好な間(中ソ友好同盟相互援助条約)、ソ連は中国人学生の育成やR-2ミサイルの提供など、中国への技術提供に協力的であった。中国初のミサイルは1958年10月、R-2をリバースエンジニアリングして複製したミサイルであり、射程は590 km、重量は20.5 トン、推進剤は液体酸素とアルコールからなった。なお、R-2も元々はソ連がドイツのV2ロケットを改良したものである。 中国初の観測ロケットT-7は1960年2月19日に南匯区の射場より打ち上げられ、成功した。 しかし、ニキータ・フルシチョフのスターリン批判や対米政策などが原因で、毛沢東はソ連から徐々に距離を置き始めた。それまで友好的であった中ソ関係は一転して対立状態となり(中ソ対立)、1960年の対立後にソ連の技術的援助は突如無くなった。
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