中ソ対立の狭間と金日成の絶対的権力の確立
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「朝鮮民主主義人民共和国の経済史」の記事における「中ソ対立の狭間と金日成の絶対的権力の確立」の解説
1956年から始まったスターリン批判、そして同年に発生したハンガリー動乱は、社会主義圏に大きな動揺をもたらすことになった。スターリン批判は北朝鮮や中国のように強い権威を持つ指導者が存在する社会主義国の警戒を呼び、またハンガリー動乱に代表されるソ連による介入も自立路線を目指す北朝鮮や中国の反発を招いた。1950年代後半以降ソ連と中国との関係悪化が目立つようになり、1960年代には中ソの対立は決定的となった。北朝鮮は中ソ対立の中、両者間のバランスを取った関係維持を基本としていたが、どちらかといえば利害の一致点が多い中国寄りの立場を取っていた。 1957年から開始された5カ年計画の時期は、千里馬運動が強力に押し進められたことが大きな特徴である。朝鮮半島の伝説にある、一日に千里を駆ける名馬にちなみ名づけられた千里馬運動は、ソ連のスターリン時代のスタハーノフ運動、毛沢東が提唱した大躍進政策と同じく、思想宣伝活動によって大衆の意識を高め、増産運動に動員するという運動であり、「朝鮮社会主義型の国家総動員体制」と評価されている。 千里馬運動は中ソの関係悪化が進む中、北朝鮮に対する援助が減少して資材や資金不足が目立つようになっていたことと、また先述の社会主義圏内の対立から自主路線を強化する必要性に迫られたことが開始の大きな原因であった。当時は民族意識が高揚し、大衆動員も比較的容易であり、5カ年計画は1年繰り上げて1960年に達成されたと発表された。しかし大衆動員による無理な増産運動は生産現場のひずみを生み、何よりも北朝鮮では千里馬運動に倣った、思想宣伝活動によって大衆の意欲を高めることに重点を置き、物質的な報酬を最小限に抑えた状況下で最大限の労働力を引き出すことを目的とした大衆動員型の運動が、現在に至るまで繰り返し行われ続けられ、北朝鮮経済に大きな影響を与えている。 1959年12月からは、日本からの在日朝鮮人の帰還事業が開始された。朝鮮戦争ならびに韓国側に脱出した越南者の影響で北朝鮮は慢性的な労働力不足に悩まされており、朝鮮戦争終結後、ソ連と中国に在住していた朝鮮人の帰国の推進を行っていた。1950年代後半、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国運動の高まりの中、北朝鮮は韓国に対する優位性の確立などという目的とともに、不足する労働力の補充や日本からの帰国者が持つ技術に注目して技術移転の機会として在日朝鮮人の受け入れを押し進めた。やがて在日朝鮮人が帰国する際に持参する物資や、北朝鮮で生活に苦しむ帰国者に対して日本の親族から送られる現金や物資、そして技術は、経済難に悩む北朝鮮当局にとって大きな支えの一つとなった。 1960年2月、金日成は江西郡青山里で現地指導を行い、その際に青山里方式と呼ばれる北朝鮮独自の農業管理方式が金日成によって提唱された。これは「農民に対して物質的な刺激よりも、政治・思想的な教育を通じて増産を図る」ことを目的とした経営管理方式であった。そして翌1961年12月には、大安電機工場で現地指導を行った金日成は、工業部門の経営管理方針である大安の事業体系を指示した。こちらも工場内の朝鮮労働党組織が企業内の経営管理体制の基本となり、政治・思想的な教育を通じて増産を図る経営管理方針であった。 1961年からは第一次7カ年計画が開始された。しかし1960年代に入り激化した中ソ対立は計画の遂行に悪影響を及ぼした。中ソ対立激化の中、北朝鮮は当初両国間の等距離外交を図り、中ソ両国から援助を引き出そうとしていたが、やがて中国寄りの立場を示すようになり、その結果としてソ連からの援助は激減する。その一方、中国は大躍進政策失敗の後遺症から経済の混乱が続き、ソ連からの援助減少の穴を埋めるには至らなかった。 また1960年代はキューバ危機の発生やベトナム戦争など、東西陣営間は激しく対立しており、韓国と対峙する北朝鮮では軍事的緊張が高まっていた。更に韓国の1961年軍事クーデターによる朴政権の成立と 1965年の日韓基本条約の締結は、北朝鮮の警戒心を高めることに繋がった。緊張する国際情勢は北朝鮮の軍備増強に拍車をかけ、経済に大きな負担を強いることになった。 1966年、国防力増強の必要性が高まったことを理由として、7カ年計画の3年延長が決定された。同年、中国では文化大革命が開始され、紅衛兵が金日成のことを批判したことがきっかけとなり、中朝関係も悪化した。ソ連に続いて中国とも関係が悪化するという苦境に追い込まれた北朝鮮は、1966年から1967年にかけて路線対立者を排除し、金日成の絶対的権力が確立した。そのような中、金日成の長男である金正日の台頭が始まった。なお北朝鮮とソ連、中国との関係が正常化するのは1970年代に入ってからのことになる。
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