キューバ危機(the Cuban missile crisis)
【キューバ危機】(きゅーばきき)
1962年10月、キューバで核兵器が発見された事を発端として発生した世界規模の危機的状況。
相互確証破壊戦略の政治的限界を露呈させ、全世界を全面核戦争勃発寸前の恐怖へ陥れる歴史的事件となった。
概要
- 1959年
- キューバのバティスタ政権が内戦で崩壊。フィデル・カストロを首班とする共産主義政権が成立。
アメリカはこれを敵視し、キューバに対し米州機構からの除名・経済封鎖などの制裁措置を執った。
更にCIAによる暗殺工作などの政権転覆を狙った工作活動も行ったが、いずれも失敗している。
カストロ政権は親米勢力との紛争に備えてソ連に接近していった。
- 1962年
- キューバからの兵器供与要請に対し、ソ連は大量の武器供与による紛争発生を忌避。
一方で相互確証破壊による抑止力を狙い、通常兵器ではなく核兵器の配備を提案。
カストロ政権もこれに同意し、極秘裏の内にキューバにソ連の中距離および準中距離弾道ミサイルが配備され始めた。「アナディル作戦」と呼ばれたこの輸送作戦はソ連最大のものと言われ、ミサイルを積んだ貨物船は、行き先を偽るために乗組員には防寒着を持たせて北へ向かうと誤認させ、貨物船の船長にも出発するまで行き先は知らされなかった。
更に外へ出てからも、偵察機対策のため日中は乗組員に外に出ないよう命じ、キューバに到着してからは夜更けにミサイルを搬入するなど徹底した防諜体制が敷かれていた。
- 1962年10月14日
- アメリカ空軍のU-2偵察機により、キューバに配備された弾道ミサイルの存在が発覚。
この事実を受け、軍部はミサイルが実戦投入可能な状態になる前に空爆を行い、更に地上部隊を投入するキューバ侵攻を主張したが、ケネディ大統領は保留とした。
実はこの時、既にミサイルは発射可能な状態だったと言われており、加えてキューバ周辺には核魚雷搭載のソ連の潜水艦、キューバ本土にも戦術核兵器が配備されていた。
対するアメリカ軍は、キューバ侵攻をにらんだ軍事演習でも核兵器の使用は想定しておらず、もし侵攻作戦が実行されていれば、完全に予想を外したアメリカ軍は大損害を被っていたばかりか、本土への核攻撃を許してしまう事態に発展しかねなかった。
- 1962年10月22日
- アメリカ政府はキューバでソ連軍のミサイル基地が建設されている事実を公表。
ソ連に対して弾道ミサイルの撤去が要求されるも、ソ連は事実無根と主張してこの要求を拒否。
ペンタゴンは「デフコン2」を発令し、全軍が準戦時体制へ移行。
弾道ミサイルの弾頭が訓練用の模擬弾から実弾へと換装され、戦略哨戒によって24時間態勢で核戦争の勃発に備えた。
そしてアメリカ海軍大西洋艦隊がミサイル搬入阻止のためにキューバを海上封鎖、戦争寸前の危機的状況に至る。
- 1962年10月27日
- ソ連側が追加条件として、トルコに配備された米軍のPGM-19「ジュピター」中距離弾道ミサイルの撤去を要求。
同時期、キューバ上空でアメリカのU-2偵察機がソ連軍のS-75地対空ミサイルに撃墜された。
ここに至って交渉決裂はほぼ確実となり、全世界が第三次世界大戦の勃発を覚悟した。
その後
この事件により、アメリカ・ソ連は共に核戦争のリスクを周知し、直接対決を忌避するようになる。
この後の冷戦はもっぱら技術開発競争と代理戦争に終始する事となった。
また、この事件を境に数年間、キューバとソ連の外交関係は如実に悪化した。
キューバは当事国であり、また自国が存亡の危機にあったにも関わらず、一切の交渉から閉め出されていた。
ソ連側もキューバの稚拙な反応に辟易し、事件以後は各国の共産革命政権と距離を置くようになったという。
キューバ危機
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注釈
- ^ 核ミサイル基地の建設を発見したアメリカであったが、この時点では基地建設であって、核ミサイルはまだ持ち込まれていないと考えていた。したがって要求は核ミサイルの撤去ではなく、ミサイル基地の撤去であった。
- ^ 10月16日から10月28日の13日間をキューバ危機とする解釈で製作された映画が「13 Days」である。
- ^ 当初のカストロ政府軍の人数の読みが甘く、予想以上の反撃であった。これはこの計画の致命的な誤りであった。
- ^ 正確な死傷者数について通説はない。「キューバ危機」203P参照
- ^ 作戦の失敗の原因は複数あり、計画そのものがずさんで、政府軍の反撃も当初の見積もりが過少すぎる評価であったと言われる。アメリカは1年半後この捕虜となった亡命キューバ人の身柄引き換えの300万ドルと医療器具など5000万ドル相当の物資をキューバ政府に提供した。ギャレス・ジェンキンズ著『ジョン・F・ケネディ フォトバイオグラフィ』184P
- ^ キューバ製葉巻「H.アップマン」を愛好していたケネディは、この発表の直前にピエール・サリンジャー報道官に対して至急大量に輸入するように命じ、1,200本を確保したことを確認した後に経済制裁の実施を発表したと伝えられている。「The Rake」Issue 8 P.104 2016年3月
- ^ CIA所属。1950年代にフィリピンと南ベトナムで共産軍と戦い、特殊作戦の天才として知られていた。
- ^ フルシチョフとカストロは作戦をキューバへの本格的な軍事介入の前触れとみていた。しかしソ連とキューバの情報機関は困惑させることが主眼で情報収集を目的とした中途半端な企てとみていた。そしてアメリカではケネディ大統領はこのマングース作戦を大してよいものとは考えていなかったといわれる。実際のところ政府内のタカ派に対してカストロ排除の行動を進めていると映していく程度の結果を余り期待しない程度の作戦であったとも言える。後にマクジョージ・バンディ補佐官がマングース作戦とは「無為を慰める心の薬だった」と語っている。しかし本気で作戦決行を進めるべきと考える人も政権内にいた。ロバート・ケネディもその1人である。「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 51P 《マングース作戦はどれくらい本気だったか?》
- ^ 10月20日に作戦は完了する予定であったという説があり、プエルトリコでカストロ暗殺を謀ったという説もあるが、それに向けて軍事行動を準備したという形跡はない。
- ^ アナディルとはシベリアにあるベーリング海に流れる川の名称である。この作戦名にしたのは、万一西側の情報機関に漏れてもカリブ海ではなく北極海での行動作戦であると推測させるために名付けた。また派遣される兵士たちに指揮官は冬用の装備一式を携行するように命じた。行先が暖かい南方ではなく寒い北方であるようにスパイにカムフラージュしたのである。「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 72P
- ^ 後にこの全く公表しないフルシチョフの決定を間違いであった、とする意見は多い。もし1962年8月の時点で両国は軍事協力協定を結んだと公式に声明を出し正々堂々とミサイルが展開されていたら、それに反対するのは難しかったであろうと、何年か後にケネディ政権の高官は率直に認めている。その意味ではソ連とキューバが核ミサイルの配備で合意していたことは国際法上完全に合法であった。全く秘密裡に進めたことがアメリカに正当な防衛の範囲内という認識を世界が持ったことになる。ただしそれでは堂々と展開していれば成功したかは疑問である。ラテンアメリカ諸国の激しい反発とアメリカ国内での反カストロ勢力や議会の殆どを占める反キューバ派はケネディを突き上げ、カストロ追放の動きに出たかも知れない。フルシチョフはケネディにこの圧力に対して弱いと見て、公表することの利益とリスクを考えリスクが大きいと計算したのかも知れない。しかしその計算が正しかったかどうかは知る由もない。「キューバ危機」~もしミサイル配備を秘密にしていなかったら~ 82P
- ^ この時期のカリブ海は荒れ模様でハリケーンの季節であり、偵察機を飛ばして荒天の中で飛行して進路を誤って墜落したり、国内深くに入ってしまって撃墜される危険性が高くなることがあり、そのための偵察制限であって、偵察をもっと早くしとけば発見はもっと早かったとか、政治問題化されることを恐れてということではない。「キューバ危機」87P
- ^ 共和党リベラル派の上院議員。この2年後の1964年秋にケネディ暗殺事件後に司法長官を辞職したロバート・ケネディが上院議員選挙に立候補して、その対抗馬がこのケネス・キーティングであった。敗北したキーティングは政界を引退した。
- ^ 共和党保守派の重鎮。この当時すでに1964年大統領選挙のケネディの対抗馬と目されていた。南部諸州がゴールドウォーターに取られると予想したケネディは翌年11月に最初の遊説で重点州としてテキサス州を訪ね、そこでダラスの凶弾に倒れた。ゴールドウオーターは結局1964年大統領選挙で共和党候補となったが、リンドン・ジョンソンに敗退する。
- ^ ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ著「キューバ危機」によれば、前日夜遅くにマクジョージ・バンディに届けられていたが、彼は大統領を起こさず翌朝に報告することにした。
- ^ 空軍参謀総長カーチス・ルメイ。第二次大戦では日本への空襲を指揮し、後にベトナム戦争で北爆を強く主張していた。
- ^ ここで出された6つの選択肢は実際には一から練り上げたものでなく、ここまでの数か月間で普通の会話で交わされていた内容のものであった。空爆と海上封鎖もすでに上院議員が口にし、軍当局も非常の事態に備えるようケネディからすでに指示されていた。
- ^ この1年後のダラスでのケネディ大統領暗殺事件の時に、大統領夫妻が乗った車のすぐ後ろの車に乗って、大統領が撃たれた瞬間にすぐに後方から大統領が乗っている車に飛び乗り、トランクの上に乗り出したジャクリーン夫人を後部座席に押しとどめたのがこのクリント・ヒルであった。
- ^ ジャクリーン夫人のこの言葉を聞いた時、クリント・ヒルは心の中で、決して許して貰えないと思うがそれでも彼女を抱き上げてシェルターに入らなければならない、彼女を守る責任がある以上、他の事はどうでもいい、と思ったという。クリント・ヒル著 白須清美訳「ミセス・ケネディ」248P
- ^ この会談の主な議題はベルリン問題であった。前年ウィーン会談での激しいやりとりとベルリンの壁構築で緊張した米ソ間の最大の問題はベルリン問題であり、前年秋にフルシチョフが一旦は延期した東ドイツとの平和条約締結をまた持ち出してきた。次にキューバ問題ではアメリカの内政干渉や就航制限などを国際法違反として苦情をいい、ミサイルについてはモスクワからの「他意はない」との指令を受けていることもグロムイコは明らかにしている。しかし後にセオドア・ソレンセンは著書「ケネディの道」で「グロムイコ外相はシラを切った」と書いている。
- ^ この時にシャープ海兵隊総司令官が他の参謀総長たちに向かって吐き捨てるように言った言葉がホワイトハウスの録音機に残っている。「キューバまで行ってミサイルを撤去するなどやってられるか。地対空ミサイル基地を探すなど出来っこない。ともかくあっちに行って邪魔者を蹴散らすのだ。」「キューバ危機」115P
- ^ 土田宏 著『ケネディー神話と実像』では午後2時30分からだが、ドン・マントンとデイヴィッド・A・ウエルチ共著『キューバ危機』ではこの日の午前に国家安全保障会議を行ったとしている。しかしソレンセンの『ケネディの道』では大統領のヘリコプターがホワイトハウスの南側芝生に着陸したのが午後1時半と述べているので、当日の午後であることは明確である。
- ^ 実はエクスコム会議のメンバーはこの時には知らなかったことだが、ケネディはこの前にトルコのミサイル撤去を指示していた。しかしトルコ政府が絶対反対で暗礁に乗り上げたままであった。しかもこのキューバ危機直前に議会の両院合同原子力委員会はトルコとイタリアのミサイル撤去を勧告してこの問題は再び浮上していた。ケネディは危機前の撤去指示を隠したまま、そして全体バランスを見ながらどのように落としどころをつけるかを見計らっていた。
- ^ 日本では当時も現在もこのキューバ危機では封鎖という言葉を使用している。
- ^ ケネディの封鎖声明後、人口600万人のキューバでは武装した戦闘員が40万人動員され、アメリカは25万人の動員で2000機の戦闘機が万が一のため配置についた。ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』206P
- ^ セオドア・ソレンセンの「ケネディの道」によると、ケネディは3分の2の賛成票の獲得にも懸念していたが結局全会一致であったことで、ラスクとマーチン国務次官補の労を心からねぎらったという。
- ^ 《またケネディはキューバのミサイル基地の写真を国連用および報道・出版用に公開した。》という言説があるが、写真の公開は25日の安保理以降のことである。
- ^ ウ・タントは飛行機の墜落で死亡したハマーショルド事務総長の代理として前年1961年11月3日に選出され、ハマーショルドの残りの任期を務めた後、キューバ危機の1ヵ月後の1962年11月30日に正式に第3代国連事務総長に就任した。
- ^ 海上封鎖後最初の首脳同士のやり取りになるケネディの返書は10月25日にフルシチョフに届いている。
- ^ この時の安保理で厳しくソ連大使を追及するスティーブンソン国連大使の姿は後に「アドレー・スティーブンソンの瞬間」という言葉がアメリカ政界の語録に刻まれ、彼が最も脚光を浴びた瞬間でもあった。ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』215P
- ^ この2日前のやり取りでCIAが証拠写真をねつ造したとゾーリン大使は批判していた。このことでのスティーブンソン大使の逆襲であり、2日前に懸命に否認したことが裏目に出た結果であった。「キューバ危機」134P この国連安保理での模様はテレビ映像で世界に流されて、映像記録として残っている。
- ^ 面白いことに、公海上での摩擦を避けるためにソ連船ではなく、あえて他の中立国のソ連チャーター船を選んで停船させていたことになる。見方を変えれば、問題のなさそうな船を止めて臨検し、問題のある船は自主的に戻るようにさせたとも言える。ソ連の立場からいくと、中身を他国に見られることは屈辱であり、選択肢はUターンしか無かったことになる。
- ^ テッド・ソレンセン著『ケネディの道』では、ここでフルシチョフの書簡の写しをスカーリに手交したと述べている。ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著『キューバ危機』では、書簡ではなく言葉での打診を行ったとしている。
- ^ ラスク国務長官のことで、ラスクはこの話に乗った。もし本物であれば、突破口になると考えたのであった。「政府内の最も信頼できる筋です」とスカーリはファーミン(フェクリソフ)に伝えた。マイケル・ドブス著『核時計零時1分前』294-296P
- ^ これまでデフコン2まで警戒態勢が上昇したのはこのときだけである。2001年のアメリカ同時多発テロ事件当時でもデフコン2は発令されなかった
- ^ ウォルター・リップマンは当時ワシントンポストの有名なコラムニストで、そのコラムは当時の日本の新聞でも紹介されるほどであった。そしてフルシチョフとはこの前年1961年4月11日に黒海沿岸のソチの近くの別荘をリップマンが訪れて8時間共に過ごしながら語り合った仲であった。またケネディに近い存在としてフルシチョフは見ていた。ただしこの時の二人の話題は殆どがベルリン問題であった。この時のフルシチョフ会見記事で後にピューリッツァー賞をリップマンは受賞している。 フレデリック・ケンペ著『ベルリン危機1961』上巻 226-229P
- ^ これを読んだ政権スタッフの中では、実は27日分が先に書かれ、26日分がその後に書かれていたのではないか、と推測する向きもあった。また26日分はあくまでフルシチョフの個人的な書簡であり、27日分はソ連政府が作成したのではないかという見方もあった。
- ^ 皮肉な話だが2年前の大統領選挙で米ソ間でミサイルギャップがあるとケネディは共和党政権を攻撃する材料に使ったが、実際はアメリカの方が圧倒的に優位であった。
- ^ 潜水艦小艦隊の指令でもあり、他の艦の副艦長と異なり核魚雷発射の承認権を持っていた。また前年にK-19の副艦長として同艦の原子炉事故に遭遇している。
- ^ ドブルイニンとの協議はあくまで秘密裡であった。およそ当時の緊迫した状況では公式の会談は不可能であり、しかも内容がトルコに設置しているミサイルの撤去についての密約の話であったので秘密を要するものであった。ただし場所はこの時は司法省となっている。『キューバ危機』155P
- ^ その後の東西のデタント(緊張緩和)で、二国間のやり取りは、およそ大使か特別代表が直接指導者に伝えることが普通にはなったが、この東西冷戦の時代にはそのようなチャンネルは存在しなかった。このフルシチョフのミサイル撤去の発表が自国のラジオ放送でアメリカに伝わるということは今日では考えられないことであった。
- ^ なお当時の両国の核戦力は、ソ連の核爆弾保有数300発に対してアメリカは5000発と、ソ連は圧倒的に不利な状況であり、仮に両国の全面戦争という事態になれば、ソ連は核兵器を用いてアメリカにある程度のダメージは与えられたものの、敗北するのは決定的であった。第二次世界大戦時にドイツを相手に苦戦した経験を持つフルシチョフは、このことをよく理解しており、アメリカの強い軍事力と強い姿勢に屈服せざるをえなかったのが、国際政治の現実であったと考えられている。
- ^ ソレンセンの著書でABCのスカリー記者がロバート・ケネディとドブルイニン大使との仲介をしたという言説は、正確ではなく、また場所も市内の公園ではなく、司法省の執務室で行われたという資料が多い。ソレンセンの著書にも後述のスカリー記者とKGBファーミンとの接触に関する記述があり、いずれも内容には触れていない。
- ^ その後1973年に国連大使となり1975年まで務めた。
- ^ この翌日の27日の夜にファーミン(フェクリソフ)とスカーリは再び会っている。フルシチョフからのトルコのミサイル撤去を要求した書簡が届いてからで、スカーリはこの時「卑劣な裏切り行為だ」として激怒していた。
- ^ この本の中でケネディの好きな一節は、二人のドイツの政治家が戦争を振り返り「なぜこんなことになったのですか」という問いに「ああ、それが分かっていればな」と答える場面である。マイケル・ドブス著『核時計零時1分前』396P
- ^ カトリック教徒であるアメリカ合衆国の大統領は、ケネディのほかには2021年に就任したジョー・バイデンの2人で、非常に少ない。
出典
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キューバ危機
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1962年には中距離弾道ミサイル(IRBM)のR-12(SS-4)がキューバに配備された事を契機としてキューバ危機が発生している。キューバ危機の間、デフコン2が発令され、北米配備のICBMであるアトラス、タイタンI、試験配備が始まったばかりのミニットマンIと、イギリスに配備されたソアーIRBM、トルコ、イタリアに配備されたジュピターIRBMは実際に発射準備態勢に入った。ソ連でもR-7が発射台上で待機状態となり、キューバに配備されたR-12が発射準備態勢に入った。このような状況はキューバ危機の時が最初で、以後はそのような事態は発生していない。
※この「キューバ危機」の解説は、「弾道ミサイル」の解説の一部です。
「キューバ危機」を含む「弾道ミサイル」の記事については、「弾道ミサイル」の概要を参照ください。
キューバ危機
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詳細は「キューバ危機」を参照 冷戦下においてU-2偵察機はソ連や中華人民共和国、キューバなどの東側諸国への偵察飛行を行った。1962年10月14日にはキューバに偵察飛行を行いソ連軍のミサイル発射基地の建設を発見したが、27日にはソ連軍の地対空ミサイルで撃墜され、パイロットは死亡した。
※この「キューバ危機」の解説は、「U-2 (航空機)」の解説の一部です。
「キューバ危機」を含む「U-2 (航空機)」の記事については、「U-2 (航空機)」の概要を参照ください。
キューバ危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 02:32 UTC 版)
当時、アメリカはソ連が核を搭載した魚雷を保有していることを知らなかった。他の種類の核兵器はよく知られているが、1962年10月のキューバ危機後何年も経過してからアメリカが核魚雷攻撃に対して脆弱であったことが明らかになった[要出典]。 危機の前、アメリカは大半のソ連の潜水艦を追跡し記録していた。危機の間アメリカはカリブ海でのソ連の存在を根絶するために封鎖を課した。ソ連の潜水艦B-59で危険な事件が発生した可能性があるが、いくつかの疑問が提起されている。通信諜報員だったヴァディム・オルロフは、10月27日に米軍の駆逐艦がB-59へ訓練用爆雷を投下したと述べた。熱気と高レベルの二酸化炭素に乗員は苦しみ、その上モスクワとの通信が取れない中で、バレンティン・サビツスキー艦長はT5核魚雷を発射のために組み立てるよう命じた。小艦隊司令官で副艦長のヴァシリーイ・アルヒーポフはサビツスキーを落ち着かせ、彼らは潜水艦を浮上させる決定をした。他の潜水艦司令官はサビツスキーがそのような命令を下した可能性は低いと判断しているため、この話は議論の余地がある。
※この「キューバ危機」の解説は、「核魚雷」の解説の一部です。
「キューバ危機」を含む「核魚雷」の記事については、「核魚雷」の概要を参照ください。
キューバ危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/10 23:32 UTC 版)
「ルドルフ・アンダーソン」の記事における「キューバ危機」の解説
U-2によるキューバ上空飛行任務は、当初はCIAによって行われ、1962年10月14日にアメリカ空軍に引き継がれた。10月15日、CIAの分析によって、偵察撮影した写真のなかにSS-4中距離弾道ミサイルが発見された。これら一連の写真がキューバ危機の発端となった。 10月27日、アンダーソン少佐はU-2に搭乗し、フロリダ州オーランドのマッコイ空軍基地を離陸した。その後、彼の搭乗機はソ連がキューバに供給したS-75ドヴィナ地対空ミサイルによってキューバのバネス近くで撃墜された。1962年10月28日0200時のCIAの書類によると、「バネス上空でのU-2の損失はおそらく、バネス設置のSA-2による迎撃、またはパイロットの低酸素症が原因であり、現在の情報によると前者だと思われる」と記載されている。アンダーソン少佐は、撃墜時の爆発の破片で与圧服に穴が開き、高空での減圧が原因で死亡した。10月31日、ウ・タント国連事務総長代理がフィデル・カストロ首相を訪問からの帰任の際、アンダーソン少佐の死亡を発表した。 ケネディ大統領によって、アンダーソン少佐は死後、空軍十字章および、空軍殊勲章、パープルハート章、Cheney Awardを授与された。 アンダーソン少佐はキューバ危機での唯一の戦闘による犠牲者だが、1962年9月27日から11月11日にかけて、第55戦略偵察部隊のB-47の3つの偵察部隊の11人が墜落によって死亡している。 アンダーソン少佐が搭乗したU-2の残骸がキューバのハバナにある2つの記念館で見ることができる。エンジン、尾翼の一部がMuseum of the Revolutionに、右翼、尾翼の一部、前輪がMuseo del Aireに展示されている。エンジンのエアインテークのひとつはヒロンにあるPlaya Giron Museumで見ることができる。 キューバ上空のU-2撃墜は映画『13デイズ』に登場する。チャールズ・エステンがアンダーソン役を演じている。
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