キューバ危機とデタントとは? わかりやすく解説

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キューバ危機とデタント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 15:00 UTC 版)

核兵器の歴史」の記事における「キューバ危機とデタント」の解説

爆撃機短距離ロケット信頼できない航空機撃ち落とされる可能性があり、初期核ミサイル限られた射程しか持たなかった。—たとえば、最初ソ連ロケット射程ヨーロッパまでに限られていた。しかし、1960年代までには、アメリカ合衆国ソビエト連邦共に大陸間弾道ミサイル (ICBM) や潜水艦発射弾道ミサイル (SLBM) を開発していた。ICBMによって、世界中のほぼどこをも狙うことができるようになり、SLBMそれより射程が短いものの、相手気付かれることなく水中から接近し近距離から核兵器発射できるようになった。これらのミサイル開発は、どの国にとってもそれまで以上に核攻撃からの防衛が非実用的になった。 迎撃する間もなくミサイル都市壊滅しうるという軍事的リアリティは、不安定な外交状況生み出した各国指導者たちは瀬戸際外交政策を採り、もし対抗する国が核戦力上のアドバンテージを得るくらいならば核戦争辞さない、とまで主張するようになった超大国では民間防衛プログラム実施され核シェルター建設などが進められ核戦争生存可能性がさかんに議論された。 瀬戸際外交クライマックスは、1962年起こったキューバ危機だろう。アメリカスパイ航空機U-2が、アメリカのわずか150kmほど南に位置するキューバ準中距離弾道ミサイル基地群が建設されているのを発見し米ソ対立激化した事件である。当時アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは、エクスコム設置しキューバの首相フィデル・カストロソビエト連邦第一書記ニキータ・フルシチョフ共謀してキューバ核ミサイル持ち込んだのだと結論付けた同年10月22日ケネディ大統領テレビ演説ミサイル発見公表ソ連非難した。そして、キューバ周辺ソ連船に対す海上封鎖臨検を行うことを宣言同時に"あらゆる状況対する"軍事的な準備ができている、とソ連に対して警告行なったキューバ持ちこまれたミサイル射程は4,000 kmほどであり、もしもミサイル基地完成すればアメリカ東海岸主要都市射程収めることになるだろうと思われた。 米ソ両国指導者たちは、第三次世界大戦突入危機背負いながら対峙交渉したフルシチョフキューバ配備したがった直接動機は、アメリカ合衆国イギリスイタリアトルコ近く似た兵器配備しており、それに対す対抗のためだったとされている。10月26日には、フルシチョフからケネディに対して妥協案が示された。その内容は、もしアメリカ将来キューバ対す軍事行動一切行わないならば、ソ連全てのミサイル撤退させるというものだったフルシチョフは、相互破滅的な運命避けるために雄弁訴えた。 『我々は、戦争という結び目のできたロープの端と端をこれ以上引くべきではありません。なぜなら、引っぱれば引っぱるほど結び目固くなってしまうからです。そして、いつかこの結び目あまりに固く結ばれすぎて、もはや誰にもほどけなくなってしまうでしょうそうしたら結び目を切るよりほかなくなってしまいます。私の言いたいことを説明する要はないでしょう。なぜならあなたは我々2人の国がどれほど恐しい力を所持しているか、完璧にご存知だからです。』 しかしながら1日後の10月27日ソビエトさらなる条件追加するその内容は、アメリカに対してトルコ配備されジュピターミサイル撤去するように求めるものであった。この要求アメリカ側には受け入れ難いものであり、また同日キューバ上空偵察していたアメリカ空軍U-2ソ連軍によって撃墜されソ連商船臨検ライン近くにまで迫ったケネディ最初条件受け入れることを発表し、また弟のロバート・ケネディ命じて秘密裏ソ連大使第二条件トルコからのミサイル撤去、も受け入れることを伝えさせた。 10月28日ソ連船は臨検ライン前で停止しその後少しそこに留まったあと、ソ連向けて返っていった。フルシチョフは、キューバから全てのミサイル撤去するように命じた放送した。 この危機は、後にアメリカソ連による全面核戦争に最も近づいて、両国最後妥協によりすんでのところで戦争突入避けられたと考えられている。コミュニケーション齟齬からの危機再発の不安から、これを契機として米ソ間の初めてのホットライン設置された。これは、米ソ首脳間を直接繋ぎ軍事活動政策についてより容易に話し合うことができるようにするものである。この事件によって、アメリカ・ソ連両国ミサイル爆撃機潜水艦コンピュータ化された発射装置によって、ささいな状況から世界破滅までの拡大が、それまで考えられていたより簡単に起こりうるということ証明された。 キューバミサイル危機後の数年間で、アメリカソ連両国による緊張状態解消するために力を尽くした核軍縮への動きにおける一つ頂点は、1963年部分的核実験禁止条約への調印であろう。この条約では、アメリカ・ソ連は今後大気水中宇宙での核実験行わないとした。この条約では地下核実験禁止されていなかったため両国はこれ以後核兵器開発進めたものの、世界中放射性降下物による危険は減少することになり、武力誇示のための大規模核実験時代終焉迎えることとなった

※この「キューバ危機とデタント」の解説は、「核兵器の歴史」の解説の一部です。
「キューバ危機とデタント」を含む「核兵器の歴史」の記事については、「核兵器の歴史」の概要を参照ください。

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