【U-2】(ゆーに)
Lockheed U-2"Dragonlady(ドラゴンレディ)".
ロッキード社の開発チーム「スカンクワークス」が、自社製の戦闘機・F-104をベースに設計・開発した戦略偵察機。
第1号機は1955年に初飛行した。
冷戦初期の情勢下において、アメリカ合衆国の仮想敵国であったソ連の領空に侵入し、隠密裏に偵察する事を目的として設計された。
そのため、地対空ミサイルが到達できない高度からの偵察を目標として高高度飛行能力を与えられた。
また、その運用目的を隠すため、型式には「雑用機」を示す「U」の記号がつけられている。
運用開始後しばらくして、ソビエト領内で撃墜されたことで本来の存在意義を絶たれ、SR-71に取って代わられた。
しかし、高高度を長時間飛行できる上、偵察任務では(偵察衛星に比して)運用コストも比較的安価なため、「雑用機」として未だ現役にあり、主に危険度が低い紛争地域の偵察や、NASAの実験機として運用されている。
関連:SR-71
スペックデータ
| 乗員 | 1名/2名(複座型) |
| 全長 | 15.1m/19.13m(U-2S) |
| 全高 | 4.88m |
| 全幅 | 24.4m/31.39m(U-2S) |
| 主翼面積 | 52.49㎡/92.90㎡(U-2S) |
| 空虚重量 | 7,030kg |
| 最大離陸重量 | 10,225kg/18,730kg(U-2S) |
| エンジン | P&W J75-P-13Bターボファン(推力75.6kN)×1基 GE F118-GE-108ターボファン(推力8,390kg)×1基(U-2S) |
| 速度 (最大/巡航) | 460kt マッハ0.8 / 692km/h(U-2S) |
| 海面上昇率 | 1,525m/min |
| 上昇限度 (実用/限界) | 21,335m/27,432m |
| 航続距離 | 3,510nm |
| 兵装 | 偵察機器一式 |
派生型
- U-2:
原型機。
- U-2A(48機):
単座の初期生産型。主に写真偵察用。エンジンはJ57-P-37Aを搭載。
- WU-2A:
U-2Aを大気サンプル採取用に改造した大気・気象観測機型。
- U-2B(5機):
U-2Aの写真偵察用の改良型。エンジンはJ57-P-31を搭載。
- U-2C:
A型及びB型を改造した通信/電子情報収集型。エンジンはJ57-P-13を搭載。
- U-2CT(6機):
U-2Cの複座操縦練習機型。
- U-2D:
計器操作手席を設けた、複座の通信/電子情報収集型。
- U-2E/F:
B/C型の空中給油対応型。
- U-2G(3機):
空母発着用にアレスティング・フックを追加し、降着装置が強化された型。
- U-2R(27機):
機体を改設計した型。燃料容量などが増大している。
- U-2RT(1機):
複座練習機型。
- U-2EPX(2機):
R型の海洋哨戒型。
- U-2S(31機):
U-2R/TR-1AのエンジンをF118に換装し、センサーや航法システムなどを更新した型。
- TR-1A(33機):
側方監視レーダーなどを搭載した戦術偵察任務型。基本的にU-2Rと同一。
- TR-1B(2機):
TR-1A型を改修した複座の操縦練習機型。
- TU-2S:
TR-1BのエンジンをF118に換装した型。
- ER-2:
NASAが保有したTR-1A原型機の呼称。
U.2
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/09 00:35 UTC 版)
U.2とは、SSDなどをコンピュータに接続するためのインターフェイスである。以前はSFF-8639と呼ばれていた規格であり、4本のPCI Expressレーンを利用して通信を行う。
エンタープライズ向けに開発された規格であり、新たに策定されたPCI Expressによるドライブと、以前のSASやSATAドライブ両方の接続が可能である。
歴史
U.2は、SSD Form Factor Working Group (SFFWG)によって、2011年12月20日にエンタープライズ向けSSDへのPCI Express接続を行うものとして発表された規格である。 レガシーなSASおよびSATAドライブとPCI Expressを用いたドライブを統一したコネクタで接続することが可能であり、2.5インチか3.5インチの筐体を持つ、ホットスワップ可能なものとすることを目的として策定された。[1]
2015年6月、SFF-8639(SFFWG)からU.2にコネクタの名称が変更された。[2]
コネクタ
U.2コネクタは機械的にはSATA Expressプラグと同一であるが、ピンの使用法を変更することで4本のPCI Expressレーンを提供する。[3][4]
また、U.2はアダプタを利用することでM.2ポートに接続することが可能である。[5]
利用
2015年11月に発売されたIntel 750シリーズには、PCI Express版とU.2版の2種類のモデルが存在する。[6]
M.2と比較したU.2のメリット
脚注
- ^ “Enterprise SSD Form Factor version 1.0”. SSD Form Factor Working Group (2011年12月20日). 2018年9月10日閲覧。
- ^ “SFFWG Renames PCIe SSD SFF-8639 Connector To U.2”. Tom's Hardware. (2015年6月5日) 2017年7月16日閲覧。
- ^ “Figure 37: Pin usage across Existing standards”. 2018年9月10日閲覧。
- ^ “U.2 connector pinout”. pinoutguide.com. 2018年9月10日閲覧。
- ^ “Intel bridges the U.2 gap with an M.2 cable for its 750 Series SSD”. The Tech Report 2017年7月16日閲覧。
- ^ “Intel SSD 750 review | TrustedReviews”. TrustedReviews 2017年7月16日閲覧。
- ^ “SSD Form Factor”. 2018年9月10日閲覧。
- ^ “M 2 SSD - Frequently Asked Questions | Kingston” (英語). Kingston Technology Company. 2018年4月17日閲覧。
U2
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/09/07 05:06 UTC 版)
| U2 | |
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ブリュッセル公演にて(2017年)
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| 基本情報 | |
| 別名 |
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| 出身地 | |
| ジャンル | |
| 活動期間 | 1976年 - |
| レーベル | |
| 公式サイト | U2公式サイト |
| メンバー | |
| 旧メンバー |
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| YouTube | |
| チャンネル | |
| 活動期間 | 2006年 - |
| ジャンル | 音楽 |
| 登録者数 | 337万人 |
| 総再生回数 | 34億4979万9567回 |
| チャンネル登録者数・総再生回数は 2026年8月25日時点。 |
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U2(ユーツー)は、アイルランドの首都ダブリン出身のロック・バンド。1976年に結成され、ボノ(ボーカル・ギター)、ジ・エッジ(ギター・キーボード・ボーカル)、アダム・クレイトン(ベース)、ラリー・マレン・ジュニア(ドラムス)の4人で構成される。結成以来一度もメンバーの変更を行うことなく活動を続けており、全世界でのアルバム総売上は1億7000万枚を超え、ポピュラー音楽の歴史上最も成功したロック・バンドの一つとして広く認知されている[6]。
初期のポスト・パンクをルーツとした原初的なサウンドから出発し、ボノの情熱的なボーカルと政治的・社会的メッセージを込めた歌詞、そしてエッジのディレイ・エフェクトを多用した空間的で浮遊感のあるギター・サウンドを特徴として独自の音楽性を確立した。
アメリカン・ルーツ・ミュージックに接近した1987年のアルバム『ヨシュア・トゥリー』の空前の大成功によって世界的スタジアム・バンドの地位を不動のものとし、続く1990年代には『アクトン・ベイビー』に代表されるインダストリアルやダンス・ミュージックを取り入れた前衛的なアプローチで大胆な自己革新を遂げた。以降も、1980年代から2010年代まで4つの年代(ディケイド)連続で全米アルバムチャート1位を獲得するなど、時代に合わせてサウンドとイメージを更新し続けている。
巨大なスクリーンや先鋭的なテクノロジーを用いたライブ・パフォーマンスの先駆者としても知られ、メディアを風刺したZoo TV ツアーや、音楽史上屈指の興行収入を記録したU2 360° ツアー、巨大な球体型アリーナのスフィアでの常設公演など、常にライブ・エンターテインメントの最前線を切り拓いてきた。
また、音楽活動と並行して社会課題にも深く関与しており、アムネスティ・インターナショナルのツアーやライブ・エイドへの参加をはじめ、ジュビリー2000、ONE Campaign、アフリカの後天性免疫不全症候群(AIDS)対策プログラム支援ブランド「RED」などボノを中心としたアフリカの貧困撲滅やエイズ対策などの人道支援・平和活動は国際的に高く評価されている[7][8][9]。
これまでにグラミー賞をロック・バンドとしては史上最多となる計22回受賞しており[10]、2005年には資格取得初年度で「ロックの殿堂」入りを果たした[11]。『ローリング・ストーン』誌が選ぶ「歴史上最も偉大な100組のアーティスト」第22位[12]。
メンバー
- 現メンバー
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- ボノ(Bono) – ボーカル、ハーモニカ(1976年 - )、ギター(1976年 - 2014年)
- ジ・エッジ(The Edge) – ギター、鍵盤楽器、バッキング・ボーカル(1976年 - )
- アダム・クレイトン(Adam Clayton) – ベース(1976年 - )
- ラリー・マレン・ジュニア(Larry Mullen, Jr.) – ドラムス、パーカッション(1976年 - )
- ツアー・メンバー
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- テリー・ローレス(Terry Lawless) – キーボード(2001年 - )[13]
- ブラム・ファン・デン・バーグ(Bram van den Berg) – ドラムス、パーカッション(2023年 - 2024年)[14]
- 旧メンバー
-
- ディック・エヴァンス(Dik Evans) – ギター(1976年 - 1978年)
- イヴァン・マコーミック(Ivan McCormick) – ギター(1976年)
タイムライン
来歴
バンド結成前
U2以前のアイルランドの音楽状況
U2が登場する以前のアイルランドの音楽シーンは、国際的にはぱっとしないものだった。ヴァン・モリソン率いるゼムが1960年代半ばにイギリスやアメリカでヒットを放ったものの、その成功は長続きしなかった。ロリー・ギャラガーやシン・リジィも世界的な成功とは言い難く、ボブ・ゲルドフ率いるブームタウン・ラッツは「ラット・トラップ(Rat Trap)」と「哀愁のマンデイ」で全英シングルチャート1位を獲得し、アイルランドのバンドとして初めて同チャートの首位に立つ快挙を成し遂げたものの、その後は勢いを維持できなかった。このように、当時はアイルランドのバンドにとって、世界的な成功を収めるのは容易なことではなかった[15]。
マウント・テンプル校での出会い
U2のメンバーが通っていたマウント・テンプル・コンプリヘンシブ・スクール(マウント・テンプル校)は、カトリック色の強いアイルランドにおいて、国内初の特定の宗教・宗派に属さない画期的な公立の男女共学・中高一貫校として設立された。当時のアイルランドは、1967年に導入された中等教育無償化政策により、貧しい家庭の子供でも大学進学を目指せる教育環境が整いつつあった[16]。
しかし、同校は学力偏重の学校ではなく、アダム・クレイトンが寄宿制の名門校(聖コロンバ・カレッジ)を退学になりこの学校へ転校することになった際、彼の父親は落胆し、息子に対する学業面での期待を半ば諦めていたという[17]。
のちにU2を結成することになる4人はこの学校で出会い、バンドの歩みをスタートさせた。メンバー間には年齢差があり、1960年生まれのアダムとボノに対し、ジ・エッジとラリーは1つ年下(1961年生まれ)の学年であった。また、ポール・ヒューソン(後のボノ)は、のちに妻となるアリソン・スチュワート(アリ)ともここで出会っている。彼にとって彼女の存在は「未来そのもの」に見えるほどの一目惚れであったという[18]。
リプトン・ヴィレッジ
学校でのポールは非常に目立つ存在であったが、14歳の時に母親を亡くした喪失感から、精神的な拠り所を求める信心深い一面も持ち合わせていた。彼は退屈を紛らわすため、近所の友人たちと「リプトン・ヴィレッジ(Lypton Village)」という前衛的なアート・グループ(あるいはストリート・ギャング)を結成し、路上パフォーマンスなどを行っていた。彼らの主な関心事は、政治、芸術、セックス、そしてロックであった[19]。
このグループ内では、互いを独特のあだ名(別名)で呼び合うルールがあった。ポールは当初「ステインヘグヴァンフイセノーレグバンバンバンバン」という奇妙で長大な名前を付けられたが、やがて「オコンネル・ストリートのボノ・ヴォクス(Bono Vox of O'Connell Street)」へと変わり、それが「ボノ・ヴォクス」へと縮まり、最終的に単なる「ボノ」として定着した。この名前は、ダブリン中心街のオコンネル・ストリート付近にあった補聴器店「Bonavox(ラテン語で『良い声』の意)」の看板に由来している[20]。
また、のちにこのグループの「非公式メンバー」として出入りするようになったU2の他の3人にもあだ名が付けられた。デイヴは当初「インチコア(Inchicore)」と呼ばれていたが、後にボノによって「エッジ(The Edge)」と名付け直された。さらにラリーには「ジャムジャー(Jam Jar)」、アダムには「スパーキー(Sparky)」あるいは「ミセス・バーンズ(Mrs. Burns)」というあだ名が与えられたが、この2人のあだ名はバンド内で定着することなく終わった[21][22]。
やがてリプトン・ヴィレッジのメンバーたちは音楽活動を本格化させ、ボノを中心とするU2と、幼馴染のギャヴィン・フライデーやグッギらが率いるヴァージン・プルーンズの二つのバンドへと分派していくことになった。
バンド結成からメジャーデビューまで
バンド結成
1976年9月、学校の校内掲示板に「当方、ドラムセットにお金を無駄遣いしてしまいました。僕と同じようにギターにお金を無駄遣いした人はいませんか?」という一枚の貼り紙が貼られた[24]。
これを掲示したのはラリー・マレン・ジュニアであった。ロックバンドを結成したがっていた息子を見かねた父親(ラリー・マレン・シニア)の助言によるものだったが、ラリー自身は「ただ楽しむだけのつもりだった。それ以外何のアイデアもなかったし、何も期待していなかった」と語っている[25]。
9月25日、貼り紙を見た生徒たちがラリーの自宅のキッチンにやって来た。顔を見せたのはボノ、エッジ、エッジの兄のディック、アダム、その他2人(ピーター・マーティンとアイヴァン・マコーミック)であった。ラリーを含めた7人でセッションを行った結果、最終的にボノ、エッジ、アダム、ラリー、そしてディックの5人が残り、最初のバンド名は「フィードバック(Feedback)」に決まった。この名前は、当時の彼らが知っていた数少ない音楽用語であったことに加え、初期の未熟なリハーサルにおいてアンプから常にフィードバック・ノイズ(ハウリング)が鳴り響いていたことに由来している[26]。
そしてこの年の秋(1976年10月頃)、学校のカフェテリアで開催されたタレント・コンテストに出場し、フィードバックとして初めて観客の前に立ってギグを行った。この時は、マウント・テンプル校の生徒ではなかった年長のディックを外した4人での演奏であった[27]。
彼らが披露したのは、ピーター・フランプトンの「ショー・ミー・ザ・ウェイ」や、当時大人気だったベイ・シティ・ローラーズの「バイ・バイ・ベイビー」などのカバー曲であった。技術的にはぎこちない演奏だったものの、生徒たちからは大いに受け、アンコールまで求められた(レパートリーが尽きていたため、再び「バイ・バイ・ベイビー」を演奏したというエピソードも残っている)。この時の観客の熱狂的な反応が大きな転機となり、当初は遊び半分だった彼らもバンド活動に本気で取り組むようになっていった[注釈 1][27][29]。
パンク・ムーブメントと「U2」への改名
その後、バンドは練習とギグを繰り返す日々を送った[30]。しかし、バンドの演奏技術はお世辞にも高いとはいえず、他人の曲を完璧にカバーすることができなかったため、やがて自分たちでオリジナルの曲を作るようになった。結果的にこれが功を奏し、カバーばかりやっていた他のバンドとは異なり、早いうちに自分たち独自のスタイルを築くことに繋がった[31]。
やがてアイルランドにもパンク・ムーブメントが押し寄せ、ラジエーターズ・フロム・スペース、アンダートーンズ、スティッフ・リトル・フィンガーズなどのパンクバンドが現れた[33][34][35]。1977年には、ナイル・ストークスがアイルランド初の本格的な大衆向け音楽雑誌『ホット・プレス』を創刊し、ロックDJのデイヴ・ファニングが海賊ラジオ局ラジオ・ダブリンで番組を始めた。ファニングと『ホット・プレス』のライター、ビル・グラハムはパンクを積極的に支持した[36]。夏季休暇中にアダムはロンドンに赴いて本場のパンクを体験し、パティ・スミスの『ホーセス』、テレヴィジョンの『マーキー・ムーン』、ザ・クラッシュの『白い暴動』などのレコードをダブリンに持ち帰った[37]。同年10月には、U2のメンバーはダブリンでザ・クラッシュの公演を観て、大いに刺激を受けた[32]。
パンク・ムーブメントに触発されたボノたちは、バンド名をパンク風の「ザ・ハイプ(The Hype)」へと変更した。デヴィッド・ボウイのバックバンドの名前に因んで付けたバンド名だった[37]。1978年2月、アイルランド国営放送(RTÉ)のプロデューサーの前で、自分たちの曲だと偽ってラモーンズの「Glad to See You Go」を演奏したザ・ハイプは、好意的な評価を得て初めてのテレビ出演を果たし、オリジナル曲の「The Fool」を演奏した[38][39]。
その後、ザ・ハイプという名前にしっくりきていなかった彼らは、当時マネージャー役だったアダムを通じて、ラジエーターズ・フロム・スペースの元メンバーであるスティーヴ・アブリル(後に『ボーイ』以降のU2の多くのジャケット・デザインを手がける人物)に相談を持ちかけた。スティーヴが新バンド名の候補として挙げた6つのリストの中にあったのが「U2」であった。ボノは「解釈の仕方が無限にある。僕の中ではU2偵察機よりもUボートのイメージだった」と語っているが、アダム(およびスティーヴ)の視点はより実用的なもので、「文字1個、数字1個だけだからポスターに名前を大きく印刷できるし、普通の会話で使う言葉(You too)だから、宣伝文句の中にも滑り込ませやすい」というグラフィック・デザインおよびマーケティング上の理由から選ばれたものであった[40][41]。
コンテストでの優勝とポール・マクギネスとの出会い
1978年3月18日、U2はLimerick Civic Week Pop '78に出場。「Street Missions」「Life On A Distant Planet」「The TV Show」の3曲を演奏し、36組のバンドとの争いを勝ち抜いて、見事優勝した。賞金は500ポンド、他にトロフィーとCBSアイルランドでデモセッションをする権利を得た。そしてこれを機に、エッジの兄・ディックは学業に専念するために、正式にバンドを脱退した[注釈 2][43][42][44][45]。
リムリックでの優勝を果たした後、バンドは『ホットプレス』のライター、ビル・グラハムと知り合う。グラハムは早くからU2の可能性に目をつけ、当時バンドのマネージャー役を務めていたアダムから頼まれて、彼らのリハーサルを見に行った。グラハムはそこでU2の可能性を感じ、大学時代からの友人だったポール・マクギネスを紹介する。マクギネスは当初、彼らの才能には懐疑的だったが、1978年5月25日、ダブリンのプロジェクト・アーツ・センターでライブを見たことで、4人の熱意、誠実さ、野心に惹かれ、マネージャーを引き受けることになった[46][47][48]。
その後、マクギネスは単なるマネージャーの域を超え、「5人目のU2」と呼ばれるほどバンドにとって不可欠な存在となった。1978年から2013年まで35年間にわたってマネージャーを務め、U2が無名の若手バンドから世界的なロック・バンドへと成長していく過程を、ビジネス面から支え続けた[49][50]。
レコード・デビューとアイランド・レコードとの契約
1978年6月、メンバーは全員学校を卒業し、それぞれの親から1年の猶予期間を与えられ、バンド活動に専念することになった。その後、ダブリンを中心に地道にライブを重ね、地元での支持を広げていった[注釈 3][注釈 4][53][54]。1979年、U2はCBS Recordsのアイルランド支社と契約し、9月2日、3曲入りミニ・アルバム『スリー』をアイルランド限定でリリースした。U2にとって最初の商業リリースであった[55][56]。
同年12月にはイギリス進出を目指して、イギリス各地でライブを重ね、レコード会社の関係者に自分たちを売り込んでいったが、メジャー・レコード会社から契約の申し出を受けることはできなかった[注釈 5][59]。同年2月には、シングル「アナザー・デイ」をリリースしたが、チャート入りしなかった。そこでU2は、周囲に「イギリスツアーは大成功だった」と嘘八百を吹聴して回り、もはや後がないとばかりにアイルランド国内ツアーへ打って出た[60]。1980年2月26日には、ダブリンのナショナル・スタジアムで、約2000人の観客を動員したライブを成功させた[61]。
このライブには、アイランド・レコードのタレント・スカウト、ビル・スチュワートが足を運んでおり、その夜、U2はアイランド・レコードから契約の申し出を受けた。バンドは同年4月にアイランドと契約、契約内容は4年間でアルバム4枚、最初の12か月に少なくとも3枚のシングルとデビュー・アルバムを発売するというものだった[63]。
そして、この時期のU2を考えるうえでもう一つ重要なのが、メンバー4人の収益を均等に分けるという原則だった。マネージャーのマクギネスは、ビートルズやローリング・ストーンズのように、ソングライティングを担うメンバーとそれ以外のメンバーとの間に収入格差が生じることを避けるため、U2に「すべてを分ける」ことを強く勧めた。実際、U2は最初の契約から4人全員をソングライターとしてクレジットし、収益を均等に分ける方針を採った。マクギネスによれば、これは「全員が同じ金額を得ることで、意思決定における民主主義を支える」という考えに基づくものだった[64]。
『ボーイ』『アイリッシュ・オクトーバー』『War(闘)』(1980年 - 1983年)
『ボーイ』- 無垢なデビュー
1980年5月23日、ジョイ・ディヴィジョンを手掛けたことで有名だったマーティン・ハネットのプロデュースで、アイランドとの契約後初のシングルとなる「11オクロック・ティック・タック」をリリースしたが、チャート入りはしなかった[65]。
ハネットはU2のファースト・アルバムもプロデュースする予定だったが、諸事情により実現しなかった[66][67]。その代役として白羽の矢が立ったのが、ピーター・ガブリエルやXTCの作品を手がけて頭角を現していたスティーヴ・リリーホワイトだった[68][69]。
兄貴肌のリリーホワイトは若いメンバーをよく引っ張って、レコーディングは順調に進み、同年10月20日、ファースト・アルバム『ボーイ』がリリースされた。本作はイギリスのアルバムチャートで52位を記録し、数か月後にはアメリカのチャートにもランクインし、ビルボード200で63位を記録。批評も概ね好評だった[注釈 6][注釈 7][76]。
アルバムリリース後、U2はヨーロッパだけでなく、アメリカも積極的にツアーで回った(ボーイ・ツアー)。当時のU2はアメリカではまだ無名に近かったが、東海岸や西海岸の大都市だけではなく、中西部まで足を延ばし、地道に各地でライブを重ねていった[77]。マクギネスは、アメリカで成功するためには短期間のツアーでは不十分で、各地の小さな会場を丹念に回り、時間をかけて観客を開拓する必要があると考えていた。この地道な努力が実を結び、後年にはアメリカに確固たるファンベースを築くことになった[78]。当時の関係者によれば、U2のメンバーは「成功」を非常に真剣に捉えており、出会うすべてのジャーナリストや関係者に対して体系的かつ執拗な売り込みを行い、着実にスターダムへの足場を固めていたのだという[79]。
ロンドンで迎えたツアー最終日、U2の楽屋に2人の大物ミュージシャンが訪れ、バンドを激励した。1人は、1975年の『明日なき暴走』で一躍スターダムにのし上がり、評論家ジョン・ランドーから「ロックンロールの未来」とまで評されたブルース・スプリングスティーン。そしてもう1人は、ザ・フーのギタリストでソングライターでもあるピート・タウンゼントだった[80][81]。後年、スプリングスティーンは、「彼らの音楽は大きくて、エコーがかかっていた。彼らの音を初めて聴いた瞬間から、大きな空間で鳴っているところが想像できた。感情も大きかったし、アイデアも大きかった」と振り返っており、U2が将来スターになることを予見していた[82]。
『アイリッシュ・オクトーバー』- 宗教的葛藤と解散の危機
1981年6月9日のロンドン公演をもってボーイ・ツアーが終了すると、U2は前作に引き続きスティーヴ・リリーホワイトをプロデューサーに迎え、同年7月からセカンド・アルバムのレコーディングに入った[83]。しかし、ツアー先のポートランドで、ボノが新作用の歌詞やアイデアを記したノート入りのブリーフケースを盗まれてしまい、完成した歌詞が一切ない状態でスタジオ入りを余儀なくされた[注釈 8]。さらに、ボノ、エッジ、ラリーの3人が、キリスト教信仰とロックバンドのライフスタイルの両立に深く悩み、バンド存続の危機に陥っていたことも重なり、制作は極めて難航した[83]。
それでも困難を乗り越え、同年10月12日に2作目のアルバム『アイリッシュ・オクトーバー』のリリースにこぎつけた。しかし、セールスも批評も前作ほどではなく、アイランド・レコード社内はU2との契約を打ち切ることが真剣に検討されるほどだった。結局、アイランド・レコード創設者、クリス・ブラックウェルが首を縦に振らず、バンドは首の皮一枚で繋がった[85]。
しかし、オクトーバー・ツアー・欧州公演終了後、今度はバンドの解散の危機に陥った。当時、ボノ、エッジ、ラリーの3人は、シャローム(Shalom)というキリスト教のグループに参加していた[注釈 9]。バンドが成功し始めた頃、ボノがグループのリーダーに金銭的援助を申し出たところ、「ロックンロールで得た不浄な金など受け取れない」と断られた。さらに他のメンバーからも、ロックバンドなど辞めてもっと宗教活動に従事すべきだと非難を浴びるようになった。ラリーは真っ先にこのグループから距離を置いたが、ボノとエッジは精神的に追い詰められ、ついにバンドを辞める決意を固めるに至った[87]。
2人から辞意を告げられたマネージャーのマクギネスは、激しく動揺した。しかし彼は、「すでにツアーは組んである。君たちには、バンドのために働いている人々に対して契約を履行する法的・道徳的義務がある。君たちの信じる神は、法(契約)を破れと教えるのか?」と2人を鋭く問い詰め、説き伏せた。この説得に対し、エッジも「神が契約不履行を望むはずがない」と納得し、辛うじてバンドは解散の危機を乗り越えた。その後、ボノとエッジはシャロームを脱退し、やがて「ロックンロールと信仰の両立は可能である」という強い確信に至るようになった[87]。
『WAR(闘)』 - 「ニュー・イヤーズ・デイ」のヒット
オクトーバー・ツアー中の1982年3月22日にシングル「セレブレイション」をリリースしたが、またしてもヒットしなかった[88]。
経済的困難から脱するためには、ヒット曲が必要と考えるようになったバンドは、三度スティーヴ・リリーホワイトを迎えて新作のレコーディングに入り、同年2月28日に3作目のアルバム『WAR(闘)』をリリースした。アルバムはバンド初の全英アルバムチャート1位になり、アルバム収録曲の「ニュー・イヤーズ・デイ」も全英シングルチャートで初のトップ10入り(最高10位)を果たしたほか、アメリカのビルボード・ホット・100チャートに初めてランクインした[89][90][91]。他にもアルバムには、北アイルランド問題をテーマにした「ブラディ・サンデー」が収録されており、U2の代表曲の一つとなった[92]。
アルバムに伴うウォー・ツアーでは、U2は北米とヨーロッパを精力的に巡演した。なかでも6月5日にアメリカ・コロラド州のレッドロックス野外劇場で行われた公演は、雨と深い霧に包まれる悪条件のなかでの熱演となり、U2のライブ・パフォーマンスを象徴する公演として後世まで語り継がれることになった。この模様はライブ映像作品『ライブ・アット・レッド・ロックス』として記録され、同公演を中心としたライブ音源は、同年11月にライブ・ミニ・アルバム『ブラッド・レッド・スカイ=四騎=』としてリリースれた。アルバムは全英アルバム・チャート2位、アメリカのビルボード200で28位を記録し、U2の国際的な知名度をさらに押し上げた[93]。
また、このツアーでは11月に初来日を果たし、大阪、瀬戸、東京で計6公演を行った[94]。日本滞在中にはフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演し、「ニュー・イヤーズ・デイ」を披露した。11月21日に収録されたとみられるこのテレビ出演では、エッジのギターが故障するというハプニングが発生し、彼は同曲のギター・パートの大半をピアノで演奏することになった[95][96]。
『焰』『ヨシュア・トゥリー』『魂の叫び』(1984年 - 1989年)
『焰』 - 新たなサウンドの模索
U2はデビュー作『ボーイ』から3作連続でスティーヴ・リリーホワイトをプロデューサーに起用してきたが、より新たなサウンドを模索するため、4作目ではブライアン・イーノとダニエル・ラノワを迎えた。前衛的な音楽活動で知られるイーノの起用には周囲からも懸念の声があり、アイランド・レコード創設者クリス・ブラックウェルも、U2のロック・サウンドが実験的な作品になることを危惧して反対したとされる[97]。
当初、イーノ自身もロック・バンドのプロデュースに積極的ではなかったが、U2の音楽に関心を持つようになり、参加を決めた。イーノはラノワを共同プロデューサーとして起用し、2人はU2とともに新たなサウンドの構築に取り組んだ[97]。
1984年5月、U2はアイルランド・ミース県のスレーン城でレコーディングを開始し、同年10月1日に4作目のアルバム『焰』を発表した。本作では、それまでの作品で聴かれたロックやポストパンクを基調としたサウンドから音楽性を広げ、シンセサイザーやエフェクト、アンビエント的な音響などが取り入れられ、U2の音楽的転換を示す作品となった。また、本作からは「プライド」が全英シングルチャート3位のヒットとなり、「バッド」が代表曲の一つとなった[97]。
1984年から1985年にかけて行われたアンフォゲッタブル・ファイアー・ツアーは、ヨーロッパ、北米、オセアニアを巡り、アリーナ規模の公演を中心にU2の国際的な人気をさらに拡大した。1985年4月1日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン公演を成功させ、アメリカだけで約57万8,000人の観客を動員し[注釈 10]。『ローリング・ストーン』は「私たちが選ぶ80年代のバンド(Our Choice: Band of the ’80s)」という見出しを掲げ、初めてU2を表紙に起用した[99]。また、U2の5枚のアルバムのうち4枚がビルボード・アルバム・チャート・トップ200にランクインし、そのうち3枚は100万枚以上を売り上げた。ツアー終了までに、U2はアメリカで最大の「カルト・バンド」と呼べる存在となっており、その立ち位置は、『ボーン・イン・ザ・U.S.A』によってスーパースターへと駆け上がる以前のブルース・スプリングスティーンにも似ていた[100]。
チャリティ・コンサートへの参加
この時期、U2の知名度と人気を高めるうえで大きな役割を果たしたのが、自作品のヒットだけでなく、チャリティ・コンサートなどで披露した精力的なライブ・パフォーマンスだった。
1984年末、ボブ・ゲルドフが提唱したエチオピア飢餓救済プロジェクト、バンド・エイドのチャリティ・シングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」にボノが参加したことを皮切りに、バンドは様々な社会的活動に深く関わるようになった[101]。その決定打となったのが、翌1985年7月に開催された歴史的チャリティ・コンサート、ライブ・エイドへの出演である[102]。
1985年7月13日、ウェンブリー・スタジアムのステージに立ったU2には、約15分間の出演時間が与えられた。U2はウェンブリー公演の最初の出演者で、そのため、多くの視聴者がU2の演奏を目にすることになった[103]。バンドは「ブラディ・サンデー」に続いて「バッド」を演奏した。しかし演奏中、ボノはステージを降りて観客席のフェンスまで移動し、観客の女性を引き寄せて抱き合いながら踊るというパフォーマンスを披露した。これは、ボノがブルース・スプリングスティーンから拝借した演出で、焰ツアーでもたびたび行っていたものであった。このため演奏時間は予定を大幅に超過し、用意していた楽曲をすべて演奏することはできなかった。演奏後、メンバーやマネージャーのポール・マクギネスは、限られた出演時間を十分に生かせなかったことを悔やみ、ボノもバンドの脱退を考えるまでに精神的に追い詰められた。しかし、このパフォーマンスはテレビ中継を通じて大きな反響を呼び、U2はライブ・エイドに出演したアーティストの中でも、クイーンと並んで特に印象的なステージを披露したバンドとして注目を集め、U2のアルバム・セールスは、その後数か月で3倍に増加した[注釈 11][102][103]。
同年、ボノは南アフリカのアパルトヘイトに反対するプロジェクト、サン・シティにも参加[104]。さらに1986年5月には、アイルランドの深刻な失業問題に対抗するためのチャリティ・イベント、セルフ・エイドにバンドとして出演し、失意の底にあった母国の若者たちを力強い演奏で鼓舞した[注釈 12] [106][107]。
続く同年6月には、アムネスティ・インターナショナルが主催した全米アリーナ・ツアー希望の戦略に、ポリスやピーター・ガブリエル、ルー・リードらと共にヘッドライナーとして参加する。このツアーの実現にあたっては、ボノ自身が他の大物アーティストたちに直接電話をかけて出演交渉に奔走した。
ツアー最終公演では、象徴的な出来事が起こった。ポリスの素晴らしいステージの最後に、北アイルランド紛争を題材にした「インヴィジブル・サン」が演奏されると、U2のメンバーが一人ずつ舞台袖から現れ、ポリスの楽器を引き継いでいった。ラリーはスチュワート・コープランドに代わってドラムを叩き、エッジはアンディ・サマーズのギターを、アダムはスティングのベースを受け取り、最後にボノがステージ中央へ進んで歌を引き継いだ。それは、当時「世界最大のバンド」と呼ばれていたポリスから、次の時代を担おうとしていたU2へ、象徴的にバトンが手渡される瞬間となった[108]。
この全米ツアーは大成功を収め、アムネスティの会員数を倍増させただけでなく、U2のファン層が「世界に変化をもたらす」という新たな政治的・社会的意識を共有していることを証明した[109]。
これら一連の活動を通して、U2は音楽活動と社会的・政治的なメッセージを結びつけるバンドとして広く認知されるようになった。
『ヨシュア・トゥリー』 - アメリカへの情景と世界制覇
この時期のもう一つの大きな音楽的変化は、バンドがルーツ・ロックへと目覚めていったことである。U2はパンクやポスト・パンクのムーブメントから直接誕生したバンドであり、ブルースやカントリーといったロックンロールの伝統的なルーツを通ってきていなかった。しかし、1984年のスレイン城でのライブでボブ・ディランと共演した際、彼から直接「君たちはもっと音楽のルーツを学ぶべきだ」と指摘されたことや、その後のサン・シティのプロジェクト等でキース・リチャーズ(ローリング・ストーンズ)と交流し、彼から古いブルースの魅力を教えられたことが、ボノにとって自らの音楽的教養を見直す大きな転機となった[110]。
また、アメリカの伝統音楽に深く惹かれる一方で、ボノは自分たち自身の母国のルーツにも目を向けた。1986年には、アイルランドの伝統音楽グループであるクラナドの楽曲「イン・ア・ライフタイム」にゲストボーカルとして参加。この共演を通じて、彼はアイルランド音楽が持つ特有の哀愁や、ケルト的な神秘の響きを深く吸収していった[111]。
こうしたアメリカン・ルーツ・ミュージックへの探求と、アイルランドの伝統音楽の要素、さらにはアメリカという国が抱える「理想の神話と冷酷な現実」に対するボノの政治的・文学的な関心が一つに結実したのが、1987年3月9日に発表された5作目のアルバム『ヨシュア・トゥリー』である。前作に引き続きブライアン・イーノとダニエル・ラノワをプロデューサーに迎えた本作は、彼らのトレードマークであったヨーロッパ的でアンビエントな音響空間に、アメリカ音楽のアーシーな土臭さを見事に融合させた傑作となった[110]。
本作は、商業的にも批評的にも空前の成功を収めた。イギリスでは発売初週に23万5,000枚を売り上げ、当時のイギリス音楽史上最速で売れたアルバムとなり、全英アルバムチャートで1位を獲得した[112]。 アメリカでもBillboard 200でU2初の1位を獲得し、U2にとって初の全米アルバム・チャート首位作となった。また、本作に収録された「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」(3週連続1位)と「アイ・スティル・ハヴント・ファウンド・ホワット・アイム・ルッキング・フォー」(2週連続1位)がいずれも全米ビルボード・ホット 100で1位を獲得し、U2にとって初の全米シングル・チャート首位曲となった[113]。本作はその後も売れ続け、累計売上は2,500万枚以上に達している[114]。
また、U2は『タイム』誌の表紙を飾った史上4番目のバンドとなった。それ以前に表紙を飾ったのは、ビートルズ、ザ・バンド、ザ・フーだけだった。ある批評家は、U2を「60年代の理想主義と70年代後半の音楽的な自由奔放さをつなぎ合わせた、別の時代からやって来た人々」と評した[115]。
1988年3月2日に開催された第30回グラミー賞では、『ヨシュア・トゥリー』が「最優秀アルバム賞」を受賞。さらに「最優秀ロック・パフォーマンス(デュオ/グループ・ヴォーカル)」も受賞し、U2はこの2部門で初のグラミー賞を獲得した。 最優秀アルバム賞では、マイケル・ジャクソンの『バッド』、プリンスの『サイン・オブ・ザ・タイムズ』などを抑えての受賞だった[116]。授賞式でボノは、「これをU2の頂点だとは考えていない。これは始まりにすぎない」とスピーチした[117]。
こうした圧倒的な商業的成功と批評的評価によって、U2は世界的なロック・バンドとしての地位を確立し、1980年代後半を代表する存在へと躍進した[116]。
『魂の叫び』 - ルーツ・ロックの探求とバッシング
『ヨシュア・トゥリー』の爆発的な成功を受け、熱狂的な全米ツアーを敢行中のU2は、アメリカン・ルーツ・ミュージックへの探求をさらに推し進めた。その探求の延長線上に生まれたのが、1988年10月10日にリリースされた『魂の叫び』である。本作には「ディザイアー」「エンジェル・オブ・ハーレム」「ラヴ・カムズ・トゥ・タウン」など、アメリカ音楽への傾倒を直接的に示す楽曲が収録され、B.B.キング、ボブ・ディラン、ザ・メンフィス・ソウル・チルドレンらとの共演も実現した[118]。
同時に、このプロジェクトはアルバムだけにとどまらなかった。U2はヨシュア・トゥリー・ツアーを記録した映像作品の制作にも乗り出し、フィル・ジョアノー監督による映画『U2/魂の叫び』を完成させた。作品にはライブ映像だけでなく、アメリカ各地でのU2の姿や、メンフィス、ニューオーリンズ、ハーレムなどを巡る彼らの旅、さらにB.B.キングらとのセッションが収められた[118]。
本作は世界的なヒットを記録し、全米・全英アルバムチャートで1位を獲得。世界累計売上は1,400万枚を超え、U2の商業的成功をさらに押し広げる作品となった[119]。しかし、映画とアルバムの発表後、バンドは特にアメリカとイギリスの音楽メディアから容赦ない激しいバッシングを浴びることになる。批評家たちは、U2がビートルズの「ヘルター・スケルター」をカバーし、ジミ・ヘンドリックスの「星条旗よ永遠なれ」の演奏を映画に挿入し、B.B.キングやディランといった伝説的ミュージシャンと肩を並べて演奏している姿を見て、「自分たちをロックの神々の神殿に格上げしようとしている」「傲慢で大げさすぎる」と酷評したのである[118]。
後年出版された自伝『U2 BY U2』などにおいて、メンバーはこのプロジェクトの意図を、アメリカの伝統音楽を探求する試みであり、先人たちへの純粋な敬意であったと説明している。しかし、アルバムと映画全体の演出における生真面目さや客観性の欠如により、当時の批評家やメディアには、そうとは受け取られなかった[118]。
本作に対するメディアからの強いバッシングは、バンドにとって大きな転機となった。彼らは1980年代に定着した「生真面目なロックバンド」というパブリック・イメージを見直し、次なる1990年代に向けて、音楽性および表現手法(アイロニーやユーモアを取り入れたアプローチ)の大幅な軌道修正を図ることになった[118]。
『アクトン・ベイビー』『ズーロッパ』『ポップ』(1990年 - 1999年)
『アクトン・ベイビー』 - 新たなイメージへの転換
1980年代後半に受けた激しいバッシングを経て、バンドは1990年代に向けた根本的な方針転換を図ることになった。彼らはかつての生真面目なパブリック・イメージを自ら解体し、新たにヨーロッパのインダストリアル・ミュージックやエレクトロニック・ダンス・ミュージックの要素を大々的に取り入れることを決断する。プロデューサーには再びブライアン・イーノとダニエル・ラノワを起用するとともに、デペッシュ・モードやナイン・インチ・ネイルズなどを手掛けた気鋭のエンジニア兼プロデューサー、フラッドを新たに招き入れた[120]。 1990年末、東西統一直後のドイツ・ベルリンにあるハンザ・スタジオ(かつてデヴィッド・ボウイがベルリン三部作を録音した伝説的スタジオ)でレコーディングが始まった。しかし、制作初期にメンバー間で音楽的方向性をめぐる意見の対立が生じた。ボノとエッジが新たな音楽的実験を推し進めようとしたのに対し、ラリーとアダムは、従来のU2らしいロック・サウンドを重視していたためである。一時はバンドの解散さえ危惧される状況となったが、エッジが演奏した二つのコード進行をきっかけに、メンバー4人による即興的なセッションから「ワン」が生まれた。この曲の制作を通じてメンバーは再び音楽的な結びつきを取り戻し、バンドは制作を継続することになった[120]。
こうして1991年11月19日にリリースされた7作目のアルバム『アクトン・ベイビー』は、従来のU2の音楽性から大きく方向転換し、エレクトロニック・ミュージックやダンス・ミュージックの要素を取り入れた作品となった。アルバムは商業的・批評的に高い評価を受け、U2の新たな音楽的方向性を示す作品となった[120]。
さらに、同作に伴って行われたZoo TVツアーでは、ステージ上に多数の大型スクリーンを設置し、テレビ映像やニュース、広告などを大量に映し出す演出を取り入れた。メディア社会や大量消費文化を題材としたこの大規模なステージ演出は、従来のロック・コンサートとは異なるマルチメディア型のライブ・パフォーマンスとして注目を集めた。また、ボノは「ザ・フライ」「ミラーマン」「マクフィスト」などの架空のキャラクターを演じ、ユーモアやアイロニーを取り入れたパフォーマンスを展開した[120]。
こうした音楽性とステージ演出の転換によって、U2は1980年代に形成された生真面目で社会的・宗教的なイメージから大きく変化し、1990年代の音楽シーンにおいて新たな存在感を示すこととなった[120]。
セラフィールド再処理施設への抗議
1992年5月、ヨーロッパでZoo TVツアーを行っていたU2は、環境保護団体グリーンピースとともに、イングランド北西部カンブリア州のセラフィールド再処理施設の拡張計画に反対する抗議活動に参加した。施設を運営するブリティッシュ・ニュークリア・フューエルズ(BNFL)は事前に抗議活動を察知し、敷地への立ち入りを禁じる差し止め命令を取得していたが、U2のメンバーらはグリーンピースの船「ソロ」からゴムボートで海岸へ上陸し、放射線防護服とマスクを着用して、アイリッシュ海から採取した汚染泥を入れたドラム缶を施設側へ「送り返す」という抗議パフォーマンスを行った。活動は満潮時の水際線より海側の、BNFLの所有地外で行われたため、差し止め命令には抵触しなかった[121]。
Zoo TVツアーでは従来のU2に見られた直接的な政治的メッセージを意識的に抑えていたが、バンドはセラフィールドについては身近な環境問題として行動する必要があると判断した。ボノは、問題に注目を集め事実を伝えるためにロックバンドが「ばかげた衣装」を着なければならない状況を批判し、エッジもセラフィールドをアイルランドにとって身近な問題だと述べ、施設拡張による放射性物質の放出増加への懸念を表明した[121]。
同年6月21日には、U2はグリーンピースの活動を支援するため、マンチェスターのG-Mex Centreで「ストップ・セラフィールド」コンサートを開催した。U2のほかクラフトワーク、パブリック・エナミー、ビッグ・オーディオ・ダイナマイトが出演し、公演の収益はグリーンピースに寄付された。また、この活動を記録した映像作品『Stop Sellafield: The Concert』も発売され、その収益もグリーンピースに寄付された[121]。
『ZOOROPA』- 実験的探求の継続
一方、Zoo TVツアーのヨーロッパ・レグに向けたプロモーション用EPとして制作が始まったプロジェクトは、創作意欲の高まりによってフル・アルバムへと発展し、1993年7月に8作目のアルバム『ZOOROPA』としてリリースされた。約2年間に及ぶツアーの合間を縫って短期間で制作された本作では、フラッドとイーノに加え、エッジもプロデューサーとして大きく関与した。前作『アクトン・ベイビー』で打ち出したエレクトロニック・ミュージックやダンス・ミュージックの要素をさらに推し進め、情報過多の現代社会を風刺した「ナム」、テクノやダンス・ミュージックの要素を取り入れた「レモン」、カントリー歌手ジョニー・キャッシュをリード・ボーカルに迎えた「ザ・ワンダラー」など、実験性の高い楽曲を収録している。本作は第36回グラミー賞で「最優秀オルタナティヴ・ミュージック・アルバム賞」を受賞し、U2の音楽的な変貌を象徴する作品となった[123][124]。
しかし、1991年から1993年にかけて行われた大規模なZoo TVツアーは、メンバーに大きな肉体的・精神的負担をもたらした。ツアー終盤のシドニー公演では、アダムがアルコールの影響でステージに立つことができず、急遽ベース・テクニシャンのスチュアート・モーガンが代役を務めるという事態も発生した。ツアー終了後、U2はしばらく活動のペースを落とし、それぞれが新たな音楽的可能性を模索する時期へと入っていった[124]。
この時期には、映画音楽を通じた新たな試みも行われた。1995年には、映画『バットマン フォーエヴァー』のために「ホールド・ミー、スリル・ミー、キス・ミー、キル・ミー」をU2名義で発表。歪んだギター・サウンドとストリングスを組み合わせたグラム・ロック調の楽曲で、ボノがZoo TVで演じたキャラクター、ザ・フライやマクフィストをモチーフにしたアニメーション・ミュージック・ビデオも話題となった。楽曲は全米・全英をはじめ各国のチャートで上位に入り、世界的なヒットを記録した[125]。
また1996年には、ラリーとアダムが、映画『ミッション:インポッシブル』のテーマ曲をダンス・ミュージックとして再構築した「ミッション・インポッシブルのテーマ」を発表した。U2のリズム隊である2人を中心に制作されたこの作品は、エレクトロニック・ミュージックを取り入れたアプローチによって新たな方向性を示した[126]。
その一方で、U2はイーノとの共同制作をさらに発展させていった。その成果として1995年11月に発表されたのが、U2とイーノを中心とするプロジェクト「パッセンジャーズ」名義のアルバム『オリジナル・サウンドトラックス1』である。本作は「実在しない映画のためのサウンドトラック」をコンセプトに、アンビエント・ミュージックや電子音楽、実験的なサウンドを取り入れた作品となった[124]。
アルバムでは、ルチアーノ・パヴァロッティをゲスト・ボーカルに迎えた「ミス・サラエボ」が特に大きな注目を集めた。同曲は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争下にあったサラエボを題材とし、戦争のさなかに開催された「ミス・サラエボ」コンテストをモチーフに制作された楽曲である。パヴァロッティによるオペラ的な歌唱とU2の音楽を組み合わせた異色の作品として、ヨーロッパを中心にヒットを記録した[127]。
『ポップ』- 実験的探求の果て
1990年代のエレクトロニック・ミュージックやクラブ・カルチャーから影響を受けたU2は、1997年にリリースした9作目のアルバム『ポップ』で、ロックとダンス・ミュージックをさらに融合させた新たなサウンドを追求した。制作には、フラッドのほか、ネリー・フーパーやハウイー・Bら当時のエレクトロニック・ミュージック・シーンで活動していたプロデューサーやDJも参加した。ボノが語った「ゴミの山の下から赤子のイエスを探し出す」という発想に象徴されるように、本作ではキッチュなポップ・カルチャーや大量消費社会の表層と、その背後にある精神的な欲求を結びつけることが試みられた[128]。
しかし、制作は当初の予定どおりには進まなかった。ラリー・が背中の手術のため一時的に制作から離れたこともあり、U2はサンプリングやドラム・ループなど、それまで以上に電子的な手法を取り入れることになった。さらに、アルバムの完成前に翌年のポップマート・ツアーの日程を決定し、チケットの販売まで開始していたため、制作は厳しいスケジュールに追われることになった。結果として、アルバムは十分な時間をかけて完成させることができないまま、1997年3月にリリースされた[128]。
こうした制作上の問題は、アルバムに伴うポップマート・ツアーにも影響を及ぼした。1997年4月にラスベガスから始まった同ツアーでは、巨大なLEDスクリーン、黄金色のアーチ、巨大なレモン型のミラーボールなど、それまでのU2のステージをさらに上回る大規模なセットが導入された。これらは大量消費社会や企業文化を戯画化したもので、ツアーそのものがU2の1990年代におけるアイロニーと視覚的な過剰さを象徴するものとなった。一方、アルバム制作とツアー準備が並行して進められたことで、バンドは十分なリハーサル期間を確保できなかった。ツアー序盤では新曲の複雑なアレンジをライブで再現することに苦戦し、巨大なステージ装置を用いた演出にもトラブルが発生した。こうした状況から、ポップマート・ツアーはその巨大なスケールと斬新な演出が評価される一方、「過剰なスペクタクル」として批判を受けることにもなった[128]。
このように、『ポップ』は、1990年代にU2が追求してきたエレクトロニック・ミュージックやクラブ・カルチャー、アイロニーをさらに推し進めた作品だったが、同時にそのアプローチが抱える限界も明らかにした。ツアーを終えたU2は、次作の制作にあたって再びバンド本来のロック・サウンドを重視する方向へと転換していく[128]。
『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』『原子爆弾解体新書』『ノー・ライン・オン・ザ・ホライゾン』(2000年 - 2012年)
ベルファスト合意への支持
1998年5月19日、ボノとジ・エッジは、ベルファストのウォーターフロント・ホールで開催された無料コンサートにアッシュらとともに出演し、3日後に行われるベルファスト合意(聖金曜日協定)の国民投票で賛成票を投じるよう呼びかけた。当時、和平合意への支持は必ずしも確実ではなく、コンサートは賛成運動の終盤に行われた[129]。
公演では、ボノがアルスター統一党党首デヴィッド・トリンブルと社会民主労働党党首ジョン・ヒュームをステージに招き、2人の手を取って高く掲げた。この演出は、1978年の「ワン・ラブ・ピース・コンサート」でボブ・マーリーが対立する政治指導者マイケル・マンリーとエドワード・シアガの手を取り合わせた場面を意識したもので、北アイルランド和平への支持を象徴する場面として広く報道された。ボノによれば、事前に2人に「ステージでは何も話さない」よう求め、両側から登場させて写真として強い印象を残すことを意図していた。ボノは後に、この場面について、トリンブルとヒュームが示した「妥協」を弱さではなく「人間の偉大な強さ」の一つだったと振り返っている[129]。
5月22日の国民投票では、ベルファスト合意は北アイルランドで71.1%、アイルランド共和国で94.4%の賛成を得て承認された。エッジは後に、コンサートとそこで撮影された場面がメディアを通じて伝えられたことが投票結果に影響した可能性があるとの認識を示している。同年、ヒュームとトリンブルは北アイルランド紛争の平和的解決に向けた功績によりノーベル平和賞を共同受賞した。
一方、ボノはこの経験を通じて、自分のカリスマ性と人を説得する能力が、機会さえあれば重要な政治的役割を担うのに適しているのではないかと考えるようになり、その後のジュビリー2000などの政治活動に繋がったとされる[129]。
ベスト・アルバムの発売と「スウィーテスト・シング」のヒット
1998年、U2はそれまでの投資による損失を受けて、自らの事業運営への関与を強め、事業体制の再編を進めた。その一環として、ポリグラム傘下のアイランド・レコードと3作のベスト・アルバムを発売する契約を締結した。契約額は当時5000万ドルと報じられたが、アイランド関係者によれば、実際にはそのほぼ2倍に達する規模だったという[130]。
同年11月、その第1弾として『ザ・ベスト・オブU2 1980-1990』を発売した。「ニュー・イヤーズ・デイ」「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」など1980年代の代表曲に加え、過去のB面曲「スウィーテスト・シング」を新たに録音したヴァージョンが収録され、同曲は先行シングルとして発売された[130]。
当時アイランド・レコードのマネージング・ディレクターだったマーク・マロットによれば、「スウィーテスト・シング」のシングル化を提案した際、ボノは全英トップ25にも入らないと予想していたが、実際には全英シングルチャート3位を記録した。マロットは、『ポップ』期のU2の作品が一部のファンにとって難解になっていたのに対し、同曲はより直接的な「歌」への回帰として受け入れられ、バンドの商業的な再浮上に貢献したと評価している。また、マロットによれば、『ザ・ベスト・オブU2 1980-1990』は約1400万枚を売り上げたという[130]。
『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』 - バンドサウンド回帰、再びロックの頂点へ
一方、1990年代におけるエレクトロニックな実験とアイロニーの極致ともいえる『ポップ』を経て、U2はテクノロジーへの依存や、皮肉と虚構をまとったキャラクターから距離を置き、もう一度バンドとしての自分たちを取り戻そうとした[131]。
その転換期にあたる2000年初頭、ボノが原案を手掛け、ヴィム・ヴェンダースが監督した映画『ミリオンダラー・ホテル』が公開され、そのサウンドトラックも発表された。ここには、サルマン・ラシュディの詩をもとにした「ザ・グラウンド・ビニース・ハー・フィート」などU2名義の楽曲が収録されたほか、ボノがイーノやラノワらと結成した特別編成によるアンビエント色の強い楽曲も収められている。まさに、90年代に追求してきた実験路線の総決算ともいえる作品だった[132][133]。
そして、同年10月、盟友のイーノ、ラノワ、そしてスティーヴ・リリーホワイトをプロデューサーに迎え、10作目のアルバム『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』をリリース。4人のメンバーが同じ空間で楽器を鳴らしながら曲を形にしていく、よりオーガニックなアプローチへと回帰した。全英シングル・チャート1位になったオープニングを飾る「ビューティフル・デイ」の突き抜けるような高揚感に象徴されるように、ストレートなギター・ロック、力強いリズム、そして普遍性のあるメロディを取り戻した本作は、世界各国で初登場1位を記録。グラミー賞でも「最優秀レコード賞」「最優秀楽曲賞」など主要部門を含む複数の賞を獲得し、世界累計売上は1,200万枚を超え、U2は批評と商業の両面で大きな復活を遂げた[134]。授賞式でボノは「U2はもう一度、この仕事に応募しているんだ。何の仕事かって? 世界最高のバンドという仕事だよ」とスピーチして、場内を湧かせた[135]。
ただ、『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』による商業的復活の背景には、『ポップ』のアメリカでの不振を受けた方向転換があったと指摘されている。イギリスの音楽ジャーナリスト、ジョン・ジョブリングによれば、一部のファンや批評家からは、本作が「初期U2」の要素を取り戻す一方、ラジオやMTVでの成功を意識して冒険性を抑えた作品になったとの批判もあった。ラリー・マレン・ジュニアも後に、当時はラジオやMTV、VH1で流れる楽曲を作り、主流のポップ市場で競うことを意識していたと述べている[136]。
また、ジミー・アイオヴィーンの協力のもと、U2とプリンシプル・マネージメントは若年層への浸透を狙った約2年間のプロモーション計画を立て、『トップ・オブ・ザ・ポップス』やMTVの『トータル・リクエスト・ライブ』などに相次いで出演した。「エレヴェイション」も映画『トゥームレイダー』とタイアップされるなど、大規模なマーケティングが展開された[137]。
アルバムに伴うエレヴェイション・ツアーでは、ポップマート・ツアーの大掛かりな舞台装置から一転し、アリーナを中心とした、より観客との距離が近いステージを選択した。巨大な多層スクリーンを廃し、観客を取り囲むようにハート型の花道を設けたシンプルな舞台構成によって、ボノやエッジが客席の間近まで移動できる親密な空間を作り上げた。2001年3月から12月までに全113公演を行い、約218万人を動員。興行収入は約1億4,350万ドルに達し、同年の世界ツアー興行収入で1位を記録した[138]。
そして、そのツアーの最中にあたる2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生する。U2は北米ツアーを続行するべきか深く葛藤したが、最終的には「今こそ音楽が果たすべき役割がある」と判断し、ツアーを再開した。テロによって深い悲しみと喪失感に包まれたアメリカでは、本作に収録された「ビューティフル・デイ」「ウォーク・オン」「ピース・オン・アース」などのピースフルなU2の楽曲は、ラジオで頻繁に流された[131]。
こうしたU2とアメリカ社会との精神的な結びつきが、一つの頂点に達したのが、2002年2月にニューオーリンズで開催された第36回スーパーボウルのハーフタイムショーだった。U2は「MLK」から「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネイム」へと演奏をつなぎ、その背後に設置された巨大なスクリーンには、9.11の犠牲者の名前が次々と映し出された。演奏の終盤、ボノがジャケットを開いて、その裏地に縫い付けられた星条旗を見せる場面は、このパフォーマンスを象徴する瞬間となった[131][139]。
その一方で、この時期にはバンドの活動をめぐる不穏な兆候もみられた。ボノが債務救済やアフリカのHIV/AIDS問題をめぐる政治活動に多くの時間を費やすようになると、その影響はバンド活動にも及び、ラリー・マレン・ジュニアは、ボノの活動を評価しながらも、エレヴェイション・ツアーでのパフォーマンスに「深刻な問題」を生じさせているとして、むしろ1年間活動を離れて政治活動に専念すべきだと述べた[140]。 また、アメリカ同時多発テロ事件後の北米公演では、犠牲者の名前をスクリーンに映し出し、警察官や消防士をステージに登場させるなど追悼色を強めた演出が行われたが、一部からは作為的で悲劇を利用しているとの批判も受けた[141]。
『原子爆弾解体新書』 - U2初のロックアルバム
『ザ・ベスト・オブU2 1990-2000』(2002年)に収録された「エレクトリカル・ストーム」「ザ・ハンズ・ザット・ビルト・アメリカ」(マーチン・スコセッシ監督『ギャング・オブ・ニューヨーク』の主題歌)を経て、2004年11月にリリースされた『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』は、スティーヴ・リリーホワイトら初期U2を支えたプロデューサー陣を再び制作に迎え、さらにストレートなロックンロールを追求した作品となった。ボノが「U2にとって初めてのロック・アルバム」と表現したように、本作では前作で始まった原点回帰の方向性をさらに押し進め、エッジのギターを前面に据えた力強くシンプルなバンド・サウンドを追求していた[142]。
先行シングルの「ヴァーティゴ」は、アップル社とのタイアップによって世界規模で展開されたiPodのテレビCMに使用され、楽曲の世界的な認知度を一気に高めた[143]。イギリスでは、デジタル・ダウンロードの売上がフィジカル・シングルを上回った2004年、その年の末に発売されたにもかかわらず年間ベストセラー・トラックとなった。さらに、ダウンロード・チャートと全英シングル・チャートの双方で1位を獲得する大ヒットとなった。さらに2005年のグラミー賞では「最優秀ロック・パフォーマンス(デュオ/グループ)」「最優秀ロック・ソング」「最優秀短編ミュージック・ビデオ」の3部門を受賞した[144]。 さらに、「サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン」もイギリスで1位を獲得し、U2のアルバムから2曲のシングルがともに全英1位を記録したのはこれが初めてだった[145]。アルバム自体も世界的な大ヒットとなり、34か国で初登場1位を記録。最終的に世界で1,000万枚を売り上げ、前作に続くU2の商業的復活を決定的なものにした[142]。
そして2005年と2006年のグラミー賞では、本作とその収録曲がノミネートされた8部門をすべて受賞した。「ヴァーティゴ」が3部門を制したのに続き、2006年には「サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン」が「最優秀楽曲賞」を、「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」が「最優秀ロック・ソング」を獲得し、アルバム本体も「最優秀アルバム賞」と「最優秀ロック・アルバム」を受賞した。結果として本作は、U2にとって前作に続く2作連続の「最優秀アルバム賞」受賞作となった[142]。
ロック史における不動の地位の確立
2005年3月、U2はロックの殿堂入りを果たした。デビューから25年を経て資格を得た最初の年での殿堂入りであり、式典ではプレゼンターを務めたブルース・スプリングスティーンがU2への熱烈な賛辞を送った。本作の成功とほぼ時を同じくして実現したこの殿堂入りは、U2が現役の人気バンドであるだけでなく、すでにロック史における重要な存在として認められていたことを象徴する出来事だった[147][148]。
同年3月末から始まったヴァーティゴ・ツアーも、U2の巨大なライブ・バンドとしての地位を決定づけるものとなった。アリーナとスタジアムを組み合わせた大規模なツアーは各地でソールドアウトが続き、2005年だけで90公演すべてが完売、300万人以上を動員。興行収益は2億6000万ドルに達し、同年のツアー興行収益ランキングで1位を獲得した[149]。
さらに、このツアーの期間中には、音楽を通じた社会的・政治的活動も大きな注目を集めた。2005年7月、アフリカの貧困問題への関心を高めるため世界各地で開催されたチャリティー・コンサートLive 8にU2が出演。ロンドンのハイド・パーク公演では、ポール・マッカートニーとともに「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を演奏し、そのまま「ビューティフル・デイ」へとつなぐオープニングを披露した[150][151]。
こうした社会との関わりは、翌2006年にも続く。前年にハリケーン・カトリーナによって甚大な被害を受けたニューオーリンズの復興を支援するため、U2はパンク・ロック・バンドのグリーン・デイと異色のコラボレーションを実現した。両者はザ・スキッズの「セインツ・アー・カミング」をカバーして共同レコーディングし、シングルとして発表。各国のチャートでヒットを記録した。さらに同年9月、営業を再開したニューオーリンズ・スーパードームで行われたNFLの公式戦では、U2とグリーン・デイがフィールド上で共演。「セインツ・アー・カミング」と「ビューティフル・デイ」を披露し、復興途上にあったニューオーリンズの人々に強いメッセージを届けた[152][153]。
また、同年冬には、1998年以来8年ぶりとなる日本公演も実現した。2006年4月4日に横浜・日産スタジアムで予定されていた公演はU2側の事情により延期され、その振替公演として11月29日、30日、12月4日の3公演がさいたまスーパーアリーナで行われた[154]。 来日時の11月29日には、ボノが首相官邸を訪れ、安倍晋三首相を表敬訪問した。ボノは安倍首相にサングラスを贈呈し、アフリカの感染症問題に対する日本の貢献を高く評価するとともに、今後も日本が世界をリードしていくことへの期待を示した[155]。 また、ボノはTBS系報道番組『筑紫哲也 NEWS23』にも出演してインタビューを受け、12月1日にはU2としてテレビ朝日系音楽番組『ミュージックステーション』に出演した[156][157]。 『ミュージックステーション』では「ヴァーティゴ」と「ウインド・イン・ザ・スカイズ」を披露し、後者はU2にとって日本で初めてライブ演奏された[157]。
税務をめぐる論争
2006年、U2は音楽出版事業の一部をアイルランドからオランダへ移転した。アイルランドでは1969年以来、芸術作品から得られる所得を対象とした芸術家向けの税制優遇措置が設けられており、U2も長年その恩恵を受けていたが、政府は2006年に非課税所得の上限を25万ユーロに制限した。これを受けてU2は、楽曲の著作権使用料を扱う音楽出版事業をオランダへ移した[158][159]。
この措置は合法であったものの、ボノがアフリカの貧困削減や開発援助の拡大を各国政府に求めていたことから、アイルランド国内では批判を招いた。労働党の財政担当広報官ジョーン・バートンは、政府に開発援助の増額を求める一方でU2が税負担を軽減することに疑問を呈し、開発NGOからも同様の批判が行われた[158][160]。これに対し、マネージャーのポール・マクギネスは、U2の事業の約90%が国外で行われており、世界各国で税金を支払っているとして、企業として税負担を最小化することは正当であると説明した[161]。
ボノは2009年にこの問題について、活動家としての自身の姿勢を理由に「偽善」と批判されたことが最も傷ついたと述べ、アイルランド自身が国際的な投資を呼び込むため競争力のある税制を構築してきた以上、U2がオランダの金融制度を利用することを偽善とみなすのは不当だと反論した。ジ・エッジも、U2は世界各国で事業を行い、それぞれの国で納税しており、税法を遵守していると主張している[162]。
『ノー・ライン・オン・ザ・ホライゾン』 - 未来の讃美歌
2009年1月18日、バラク・オバマの大統領就任を祝うコンサート「ウィ・アー・ワン:オバマ就任祝典」に出演した。ワシントンD.C.のリンカーン記念館前で約40万人の観客を前に、「プライド」と「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」を披露。キング牧師が1963年に「アイ・ハヴ・ア・ドリーム」の演説を行った場所で、ボノは「プライド」の演奏中に「自由を鳴り響かせよう」と呼びかけ、キング牧師の夢をアメリカだけでなく、アイルランド、ヨーロッパ、アフリカ、イスラエル、パレスチナにも広げるメッセージを発した。続いて演奏された「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」では、オバマが選挙キャンペーンでこの曲を使用したことにも触れ、次期大統領への敬意を表した[163]。
一方、前2作でストレートなロック・サウンドへの回帰を推し進めたU2は、次なるアルバムで再び実験的なアプローチへと向かい、2007年からモロッコのフェズでレコーディング・セッションを開始した。今回はブライアン・イーノとダニエル・ラノワを単なるプロデューサーとしてではなく、対等なソングライター(共作者)として招き入れている。「未来の賛美歌」をテーマに、北アフリカの民族音楽からインスピレーションを得ながら、エレクトロニクスとロックを融合させる実験的なサウンドを追求した[164]。 その後、ダブリン、ニューヨーク、ロンドンでの長期にわたるセッションを経て、2009年2月に12作目のアルバム『ノー・ライン・オン・ザ・ホライゾン』がリリースされた[165]。
しかし、本作は批評家から一定の評価を得た一方、商業面では前2作に及ばなかった。アルバムは30か国で初登場1位を記録したものの、2009年10月の時点で世界売上は約100万枚にとどまり、2004年の『原子爆弾解体新書』の売上を大きく下回った。ボノは、U2が当時のポップ・ミュージックの潮流を見誤り、より実験的で複雑な作品を作ってしまったことへの失望を語っている。先行シングルの「ゲット・オン・ユア・ブーツ」も、全英シングル・チャートで12位、アメリカのビルボード・ホット 100で37位にとどまり、「ビューティフル・デイ」や「ヴァーティゴ」のような大ヒットには至らなかった[166]。
一方、本作に伴って2009年6月からスタートしたU2 360°ツアーは、商業的には歴史的な大成功を収めた。スタジアムの中央に巨大な4本脚の構造物を設置し、その下に円形のステージを組んで観客が360度全方向からバンドを取り囲むという規格外のセットは、通称「ザ・クロウ(The Claw)」と呼ばれた。ツアーは2009年から2011年まで26か月にわたって行われ、30か国・5大陸で110公演を実施。最終的に700万人を超える観客を動員し、興行収入は7億3,642万1,586ドルに達した。2011年7月の終了時点で、史上最高興行収入のコンサート・ツアーとなった[167]。
しかし、その華々しい興行的成功とは裏腹に、ツアーの内実には多くの困難も伴った。本作からの新曲が過去のヒット曲ほど観客に浸透していなかったため、バンドはセットリストの構築に苦心することになった[168]。 さらに2010年5月、ツアー再開に向けたリハーサル中にボノが深刻な脊椎損傷を負い、ミュンヘンで緊急手術を受ける事態となった。これにより北米ツアーは延期され、同年6月に予定されていたグラストンベリー・フェスティバルへのヘッドライナー出演もキャンセルされた[169][170]。
東日本大震災復興支援、ブロードウェイ・ミュージカル『スパイダーマン:ターン・オフ・ザ・ダーク』、グラストンベリー出演
ボノの重傷と長期にわたるリハビリテーションを乗り越え、U2は2011年、再び精力的な活動を展開した[171]。
同年3月に発生した東日本大震災に際しては、世界のトップ・アーティストが参加したチャリティー・コンピレーション・アルバム『ソングス・フォー・ジャパン』に「ウォーク・オン」を提供した。このアルバムは、地震と津波による被災者を支援するために企画されたもので、世界各国のトップ・アーティストによる楽曲を収録。収益は日本赤十字社に寄付された。U2も震災発生から間もない3月27日に参加を発表し、いち早く日本への支援を表明した[172]。
続く6月には、ボノとエッジが音楽と作詞を担当したブロードウェイ・ミュージカル『スパイダーマン:ターン・オフ・ザ・ダーク』が、ニューヨークのフォックスウッズ・シアターで正式開幕した。U2にとって初めて本格的にミュージカルへ挑戦するプロジェクトで、二人はU2のための楽曲とは異なり、登場人物の物語や感情を支える音楽の制作に取り組んだ[173]。しかし制作は難航し、出演者の負傷事故や度重なる延期、演出・脚本の大幅な変更を経て、2011年6月14日にようやく正式開幕を迎えた。制作費は約6,500万~7,000万ドルに膨れ上がり、当時のブロードウェイ史上最高額とも報じられた。作品に対する批評家の評価も厳しく、ボノとエッジの楽曲についても賛否が分かれた[174][175]最終的に約3年間の上演を経て2014年1月に閉幕した本作は、商業的・批評的には成功したとは言い難い結果に終わった[176]。
そして同月、前年のボノの負傷によって出演を断念せざるを得なかったイギリスのグラストンベリー・フェスティバルに、U2はついにヘッドライナーとして初出演を果たした。2011年6月24日、ピラミッド・ステージの初日のトリを務めたU2は、約1時間45分にわたって19曲を演奏。「リアル・シング」で幕を開け、「アウト・オブ・コントロール」で締めくくるステージでは、激しい雨が降り続く悪条件の中、「ビューティフル・デイ」「ミステリアス・ウェイズ」「ワン」「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネイム」など、代表曲を次々と披露した[177]。
『ソングス・オブ・イノセンス』『ヨシュア・トゥリー・ツアー2017/2019 』『ソングス・オブ・エクスペリエンス』(2013年 - 2019年)
ソングス・オブ・イノセンス - 過去の探求
巨大なU2 360°ツアーを終えたU2は、次なるアルバムのテーマを模索するなかで、自らの原点であるアイルランド・ダブリンでの青春時代を見つめ直していった。2013年末には、その制作過程から生まれた新曲「オーディナリー・ラヴ」を映画『マンデラ 自由への長い道』に提供。ネルソン・マンデラへの敬意を込めて書かれたこの曲は高く評価され、2014年1月、第71回ゴールデン・グローブ賞で「最優秀主題歌賞」を受賞した[178][179]。
翌2014年2月には、エイズ対策を目的とする(RED)とのチャリティー企画として新曲「インヴィジブル」を発表。スーパーボウル中継で楽曲のCMを放映するとともに、iTunesで24時間限定の無料ダウンロードを実施し、1ダウンロードにつきバンク・オブ・アメリカが1ドル、最大200万ドルを(RED)に寄付する仕組みを採用した。これは、U2がインターネット時代の新しい音楽配信と社会貢献を結びつけた試みだった[180]。
そして同年9月、Appleの新製品発表会に登壇したU2は、13作目のアルバム『ソングス・オブ・イノセンス』を、iTunes Storeの5億人以上のユーザーに無料提供するという前代未聞のリリースを敢行した。Appleは「史上最大のアルバム・リリース」と称し、119か国のユーザーに無料で配信された[181]。 一方、ユーザーが明示的に選択しなくてもライブラリにアルバムが追加される仕組みは大きな反発を招き、Appleは削除専用ツールを用意する事態となった。後にボノ自身も「美しいアイデアだったが、調子に乗ってしまった」と謝罪している[182][183]。
音楽的には、アルバムはボノの母親への思いや、ダブリンでのパンク・ロックとの出会いなど、U2の少年時代の記憶を掘り起こした極めてパーソナルな作品となった[184]。本作に伴う2015年のイノセンス・アンド・エクスペリエンス・ツアーでは、アリーナ中央を縦断する巨大なシースルーLEDスクリーンを導入し、メンバーがスクリーン内部に入り込んで演奏する革新的なステージ演出を実現した[185]。
ヨシュア・トゥリー・ツアー2017
その一方で、前作と対をなす『ソングス・オブ・エクスペリエンス』の制作は予定より長期化していた。政治情勢の変化やボノ自身の健康上の危機などを受け、完成していた楽曲を見直し、アルバムの内容を大幅に書き直すことになったためである。その結果、2017年の段階でもアルバムは完成せず、U2は新作の発売に先立って、デビュー30周年を迎えた『ヨシュア・トゥリー』を中心に据えた特別なツアーを行うことを決定した[186]。
2017年5月から始まったヨシュア・トゥリー・ツアー2017は、1987年の名盤『ヨシュア・トゥリー』を全曲演奏する構成を軸とし、北米、ヨーロッパ、南米を巡回。全51公演で約270万人を動員する大規模なスタジアム・ツアーとなった。ステージには約61×14メートル、8K解像度の巨大LEDスクリーンが設置され、30年前のアルバムを最新の映像技術によって再構築するという、過去と現在を結びつけたツアーとなった[187]。
ソングス・オブ・エクスペリエンス - 愛こそすべてを乗り越える
そして2017年12月1日、ようやく14作目の『ソングス・オブ・エクスペリエンス』をリリース。『ソングス・オブ・イノセンス』と対をなす作品として、家族や友人、ファン、そして自分自身に宛てた「手紙」のような歌詞を持つ、より成熟した作品となった。アルバムは全米Billboard 200で初登場1位を獲得し、U2にとって8作目の全米1位アルバムとなった。これによりU2は、1980年代、1990年代、2000年代、2010年代の4つの年代すべてで全米1位を獲得した史上初のグループとなった[188]。
翌2018年のエクスペリエンス・アンド・イノセンス・ツアーでは、前ツアーで確立した映像技術をさらに発展させ、「イノセンス」と「エクスペリエンス」という二つの世界を一つのステージ上で交差させる演出を展開した。U2はキャリア後半に入っても、過去の成功を再現するだけでなく、映像、テクノロジー、ロック・コンサートを融合させながらライブ表現の更新を続けた[189]。
さらに2019年には、ヨシュア・トゥリー・ツアー2019として再び『ヨシュア・トゥリー』を軸にしたスタジアム・ツアーを開催。ニュージーランド、オーストラリア、シンガポール、韓国、フィリピン、インドに加え、日本では12月4日と5日の2日間、さいたまスーパーアリーナで公演を行った。これはU2にとって実に13年ぶりの日本公演となり、ボノはステージ上で「日本との深いつながり」を語り、1983年の初来日以来の日本との縁にも触れた[190][191]。
『ストーリーズ・オブ・サレンダー』『ソングス・オブ・サレンダー』『U2:UV アクトン・ベイビー・ライブ・アット・スフィア』(2020年 - 2025年)
2020年以降のU2は、新型コロナウイルスの世界的な流行によってライブ活動が大きく制限される一方、過去の楽曲を見つめ直し、新たな形で再提示する時期へと入っていった。2021年には、映画『SING/シング:ネクストステージ』のために新曲「ユア・ソング・セイヴド・マイ・ライフ」を発表。ボノは同作でアニメーション映画の声優にも初挑戦し、U2としては2019年の「アヒンサー」以来となる新曲となった[192]。
2022年には、ボノが初の本格的な自伝『サレンダー(SURRENDER: 40 Songs, One Story)』を出版。11月に刊行されたこの本は、U2の楽曲40曲をそれぞれ一つの章の題名とし、少年時代のダブリンからU2の結成、世界的な成功、社会活動に至るまでを振り返ったものだった。さらにボノはこの自伝を舞台化した一人芝居「ストーリーズ・オブ・サレンダー」を上演し、音楽と朗読、演劇を組み合わせた新たな表現にも取り組んだ[193]。
同年5月には、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、ボノとエッジがウクライナの首都キーウを訪問。ゼレンスキー大統領からの要請を受け、地下鉄駅を利用した防空シェルターで約40分間の即興ライブを行った。ウクライナのバンド、アンティティラのフロントマンで、当時は前線で衛生兵として活動していたタラス・トポリアも参加し、U2は音楽を通じてウクライナへの連帯を示した。この経験は後の「ユアーズ・エターナリー」にもつながっていく[194]。
そして2023年3月、U2は『ソングス・オブ・サレンダー』を発表した。これは『ソングス・オブ・イノセンス』や『ソングス・オブ・エクスペリエンス』以来の新作アルバムではなく、40年以上にわたるキャリアから40曲を選び、エッジを中心に完全に新たなアレンジで再録音した作品である。原曲のポストパンク的な緊張感を削ぎ落とし、テンポやキー、コードを変更し、時には歌詞まで書き換えることで、より親密で内省的な音楽へと生まれ変わらせた。コロナ禍のロックダウン中に始まったこの実験は、U2が自らの過去を「現在から聴き直す」試みへと発展した[195]。
同年9月には、ラスベガスに開業した巨大な球体型会場「Sphere」で、U2:UV アクトン・ベイビー・ライブ・アット・スフィアを開始した。『アクトン・ベイビー』を軸にしたこの公演は、会場全体を巨大な映像空間として利用する圧倒的な没入型ライブとなり、U2は1980年代から追求してきたロックと映像・テクノロジーの融合を、さらに極端なレベルへと押し進めた。当初の予定を大幅に延長し、最終的には2024年3月2日まで40公演を開催。最終公演では、長年U2のドラマーを務めるラリ-7も会場に姿を見せ、U2は「40」の演奏で40公演の歴史的なランを締めくくった[196][197]。
2024年には、U2が1990年代のボスニア戦争下のサラエボで音楽を通じて現地の人々と連帯した歴史を描くドキュメンタリー映画『キス・ザ・フューチャー』も公開された。作品は、包囲下のサラエボで活動していた地下音楽シーンと、それを世界に伝えようとしたアメリカ人援助活動家ビル・カーターの働きを軸に、U2が1997年にサラエボで行った歴史的なコンサートへと至る過程を描いた[198]。
同年10月には、U2が社会的・政治的な意識を持つ音楽活動を評価され、ウディ・ガスリー賞(Woody Guthrie Prize)を受賞。ボノとエッジは授賞式で6曲のアコースティック・セットを披露し、「ランニング・トゥ・スタンド・スティル」「マザーズ・オブ・ザ・ディサピアード」「ワン」「プライド」などを演奏した。この受賞は、U2が長年にわたり戦争、貧困、人権、社会的不公正をテーマに音楽と活動を続けてきたことが、ウディ・ガスリーの精神と重ね合わせて評価されたものだった[199]。
再始動(2026年 - )
そして2026年、U2はついに新たなスタジオ・アルバムに向けて本格的に動き始めた。2月18日には、6曲入りのEP『デイズ・オブ・アッシュ』を突然リリース。現在の政治・社会情勢に対する怒りや不安、ウクライナなどで自由のために戦う人々への連帯を強く打ち出した内容となった。U2はこのEPを、後に予定される新アルバムとは別の「現在への即時的な反応」と位置づけている[200]。
さらに4月には、6曲入りの第2のEP『イースター・リリー』を発表。ボノは、この作品について「自分たちの関係は、この困難な時代に耐えられるのか」といった非常に個人的な問いを楽曲に込めたと説明している。同時に、バンドは新しいスタジオ・アルバムの制作を継続しており、ボノはそれを「ノイジーで、混沌としていて、理不尽なほどカラフルな」作品として、ライブで演奏することを強く意識していると語った[201]。
7月には、新作アルバムからの先行シングルとして「ストリート・オブ・ドリームス」をリリース。ジャックナイフ・リーをプロデューサーに迎えたこの曲は、2017年の『ソングス・オブ・エクスペリエンス』以来、9年ぶりとなるU2の新スタジオ・アルバムに向けた第一歩となった。アルバムは2026年後半のリリースが予定されているが、現時点では正式なタイトルや発売日はまだ発表されていない[202]。
さらに7月24日には、U2とDJ・プロデューサーのマーティン・ギャリックスによるコラボレーション曲「ファイアフライズ」もリリースされた。この曲はU2の4人全員がギャリックスと共演した初の楽曲で、ボノのボーカルとU2のロック・サウンドにギャリックスのエレクトロニックなプロダクションを融合。ベルギーのトゥモローランドでは、ギャリックスのステージにエッジがサプライズ登場し、同曲を初披露した[203]。
ライブの特徴
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この節の加筆が望まれています。
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ライヴでは毎回異なるコンセプトでパフォーマンスを行い、独創的なステージセットやコンサートの規模、動員数、収益が話題となるバンドである。2006年にアメリカの雑誌『スピン』から「世界で最も良いライブを行う25バンド 第1位」に選出されている[204]。
1992年から1993年にかけて行った『ZOO TV TOUR』ではステージ上に巨大なテレビを多数設置し、パフォーマンスに合わせて異なる映像やメッセージを流した。また、ドイツ車「トラバント」を照明として使用したり、会場の中央にまで花道を置くステージ設計など、当時としては画期的なステージセットであった。ライヴ中にはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争下のサラエヴォを衛星中継で結び、包囲された市民の惨状を観客に伝えた。他には衛星中継でルー・リードと共演をしたこともあった。またMCでは、ボノが開催地のどこかへ電話をかけるコーナーがあり、フランスのミッテラン大統領(当時)、ドイツのコール首相(当時)、アメリカのホワイトハウス(ブッシュ大統領(当時)には繋いでもらえず)、大統領候補であったビル・クリントン(本人との会話に成功)などのほか、ピザ屋にピザ1万枚の宅配を注文したこともあった。1993年12月9日・10日に東京ドームで行われた日本公演では、初日が横綱曙(当時)、2日目は117番(NTTの時報ダイヤル)相手に「マドンナにつないでくれ」と言っていた(マドンナは当時来日中だった)。
1997年から1998年に開催した『POPMART TOUR』では、高さ17m×幅51mの巨大スクリーンとミラーボール式のレモンのオブジェなど、総額約180億円もの費用をかけたスタジアム・ツアーとなった。ボスニア紛争停戦合意後の1997年には、北大西洋条約機構(NATO)平和維持軍監視下のサラエヴォで『POPMART TOUR』を開催。入場料収入の全額をボスニアの戦争孤児支援基金「ウォー・チャイルド」へ寄付した。
2001年に開催した『Elevation Tour』や、2005年から2006年に開催した『Vertigo Tour』では一見するとシンプルなステージに戻ったかのように見えたが、最先端の装置・照明・映像を駆使しており、バンドのこだわりが感じられる内容と演出になっていた。
2009年から2011年にかけて開催したU2 360°ツアーは、全110公演の興行収入が約7億3,614万ドル、観客総動員数が726万8,430人というこれまでに報道されたどのコンサートよりも高い数字を記録した。このツアーの成功で、改めてU2の世界的人気が根強いことを証明しただけでなく、通常よりも25%増しの観客を動員できる『ザ・クロウ』(The Claw、鉤爪)と名づけられた巨大なステージセット運営が成功したということになった[205]。
U2が影響を受けた音楽
U2の音楽性は、1970年代末のデビューから現在に至るまで、時代ごとの多種多様なジャンルを吸収・解体し、独自のサウンドへと昇華させることで進化を続けてきた。
結成当初はパンク・ロックの衝動やアティテュードを原点としつつも、次第にポストパンクやニュー・ウェイヴが持つ先鋭的かつ空間的なアプローチを取り入れ、既存のブルース・ロックの定石から逸脱したジ・エッジ独自の「チャイミング・ギター」を確立させた。その後、1980年代後半にはアメリカの伝統的なルーツ・ミュージック(ブルースやゴスペル)に深く傾倒して音楽的な肉体性と物語性を獲得し、1990年代に入ると一転してヨーロッパのエレクトロニック・ミュージックやクラブ・カルチャー、インダストリアル・ロックを大胆に導入するなど、数作ごとに劇的な自己革新を行っている。
U2が影響を与えた音楽
U2は、ジ・エッジによる特徴的なギター奏法、ボノの歌唱、宗教的・政治的テーマを扱った歌詞、壮大なサウンドスケールや革新的なライブ演出などによって、1980年代以降のロック・ミュージックに大きな影響を与えた。特にエッジが用いたディレイを駆使したギターサウンドは、後続のロック・ギタリストに広く影響を与えている。
U2の影響は、オルタナティヴ・ロックやポストパンク、スタジアム・ロックにとどまらず、世界各国のロックやポップ・ミュージックにも及んでいる。日本ではL'Arc-en-Ciel、GLAY、LUNA SEA、Mr.ChildrenなどがU2からの影響について言及しており、韓国などアジアの音楽シーンにもU2を想起させるサウンドを持つ作品が見られる。また、U2の楽曲やアルバム、ライブ演出、アートワークなどとの類似を指摘される作品も存在する。
ディスコグラフィー
スタジオ・アルバム
- 『ボーイ』 - Boy(1980年)
- 『アイリッシュ・オクトーバー』 - October(1981年)
- 『WAR(闘)』 - War(1983年)
- 『焰』 - The Unforgettable Fire(1984年)
- 『ヨシュア・トゥリー』 - The Joshua Tree(1987年)
- 『魂の叫び』 - Rattle and Hum(1988年)
- 『アクトン・ベイビー』 - Achtung Baby(1991年)
- 『ZOOROPA』 - Zooropa(1993年)
- 『ポップ』 - Pop(1997年)
- 『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』 - All That You Can't Leave Behind(2000年)
- 『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』 - How to Dismantle an Atomic Bomb(2004年)
- 『ノー・ライン・オン・ザ・ホライゾン』 - No Line on the Horizon(2009年)
- 『ソングス・オブ・イノセンス』 - Songs of Innocence(2014年)
- 『ソングス・オブ・エクスペリエンス』 - Songs of Experience(2017年)
ライブ・アルバム
- 『ブラッド・レッド・スカイ=四騎=』 - Under a Blood Red Sky(1983年)
コンピレーション・アルバム
- 『ザ・ベスト・オブU2 1980-1990』 - The Best of 1980–1990(1998年)
- 『ザ・ベスト・オブU2 1990-2000』 - The Best of 1990–2000(2002年)
- 『ザ・ベスト・オブU2 18シングルズ』 - U218 Singles(2006年)
受賞歴
- 1987年
- MTV Video Music Awards「ビューワーズ・チョイス」(「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」)
- 1988年
- 第30回グラミー賞「年間最優秀アルバム賞」・「最優秀ロック・パフォーマンス デュオ/グループ」(『ヨシュア・トゥリー』)[206]
- 第2回日本ゴールドディスク大賞【洋楽】「ザ・ベスト・アルバム・オブ・ザ・イヤー」ロック・フォーク(グループ)部門(『ヨシュア・トゥリー』)[207]
- ブリット・アワード「ベスト・インターナショナル・グループ」[208]
- 1989年
- ブリット・アワード「ベスト・インターナショナル・グループ」[208]
- 第31回グラミー賞「最優秀ロック・パフォーマンス・デュオ/グループ」(「ディザイアー」)、「ベスト・パフォーマンス・ミュージック・ビデオ」(「約束の地」)[206]
- ジュノー賞「インターナショナル・エンターテイナー・オブ・ザ・イヤー」[209]
- MTV Video Music Awards「ベスト・ビデオ・フロム・ア・フィルム」(「ラヴ・カムズ・トゥ・タウン」)
- 1990年
- ブリット・アワード「ベスト・インターナショナル・グループ」[208]
- 1992年
- MTV Video Music Awards「ベスト・グループ・ビデオ」・「ベスト・スペシャル・エフェクツ・イン・ア・ビデオ」(「リアル・シング」)
- 1993年
- ブリット・アワード「ベスト・ライブ・アクト」[208]
- 第35回グラミー賞「最優秀ロック・パフォーマンス・デュオ/グループ」(『アクトン・ベイビー』)[206]
- ジュノー賞「インターナショナル・エンターテイナー・オブ・ザ・イヤー」[209]
- 1994年
- 1995年
- 第37回グラミー賞「最優秀ロング・フォーム・ミュージック・ビデオ」(『Zoo TV:ライブ・フロム・シドニー』)[206]
- MTV Video Music Awards「インターナショナル・ビューワーズ・チョイス」(「ホールド・ミー、スリル・ミー、キス・ミー、キル・ミー」)
- 1998年
- ブリット・アワード「ベスト・インターナショナル・グループ」[208]
- 2001年
- ブリット・アワード「ベスト・インターナショナル・グループ」・「アウトスタンディング・コントリビューション・トゥ・ミュージック」[208]
- 第43回グラミー賞「年間最優秀レコード賞」・「年間最優秀楽曲賞」・「最優秀ロック・パフォーマンス・デュオ/グループ」(「ビューティフル・デイ)[206]
- MTV Video Music Awards「ビデオ・ヴァンガード・アワード」
- 2002年
- 第44回グラミー賞「年間最優秀レコード賞」(「ウォーク・オン」)、「最優秀ポップ・パフォーマンス賞デュオ/グループ」(「スタック・イン・ア・モーメント」)、「最優秀ロック・パフォーマンス・デュオ/グループ」(「エレヴェイション」)、「最優秀ロック・アルバム賞」(『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』)[206]
- アメリカン・ミュージック・アワード「インターネット・ファン・アワード」
- 2003年
- 第60回ゴールデングローブ賞「主題歌賞」(「ザ・ハンズ・ザット・ビルト・アメリカ」)[210]
- 2005年
- 第31回ピープルズ・チョイス・アワード「フェイバリット・ミュージック・グループ/バンド」[211]
- 2005 NRJ Awards「功労賞」[211]
- 第47回グラミー賞「最優秀ロック・パフォーマンス・デュオ/グループ」・「最優秀ロック楽曲賞」・「最優秀ショート・フォーム・ミュージック・ビデオ」(「ヴァーティゴ」)[206]
- 第17回ワールド・ミュージック・アワード「ワールド・ベスト・セリング・ロック・アクト」[211]
- ビルボード・ミュージック・アワード「トップ・ツアリング・アーティスト」、「トップ・ドロー」、「トップ・ボックススコア」
- 2006年
- 第48回グラミー賞「年間最優秀アルバム賞」・「最優秀ロック・アルバム賞」(『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』)、「年間最優秀楽曲賞」・「最優秀ロック・パフォーマンス・デュオ/グループ」(「サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン」)、「最優秀ロック楽曲賞」(「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」)[206]
- アムネスティ・インターナショナル「良心の大使賞」[212]
- 2007年
- 第19回ワールド・ミュージック・アワード「ベスト・セリング・アイリッシュ・アーティスト」[213]
- 2011年
- ビルボード・ミュージック・アワード「トップ・ツアリング・アーティスト」
- Qアワード2011「特別アクト賞」[214]
- 2012年
- ビルボード・ミュージック・アワード2012「トップ・ツアリング・アーティスト」
- 2014年
- 第71回ゴールデングローブ賞「主題歌賞」(「オーディナリー・ラブ」)[215]
ほか
来日公演
| 年 | 日 | 場所 | |
|---|---|---|---|
| JAPAN TOUR '83[216] | |||
| 1983年 | 11月22日 | フェスティバルホール | |
| 11月23日 | 瀬戸市文化センター(愛知県) | ||
| 11月26日 | 渋谷公会堂 | ||
| 11月27日 | |||
| 11月29日 | 東京厚生年金会館 | ||
| 11月30日 | 中野サンプラザ | ||
| LOVE COMES TO TOWN TOUR WITH B.B. KING[217] | |||
| 1989年 | 11月23日 | 横浜アリーナ | |
| 11月25日 | 東京ドーム | ||
| 11月26日 | |||
| 11月28日 | 大阪城ホール | ||
| 11月29日 | |||
| 12月1日 | |||
| ZOO TV TOUR JAPAN[218] | |||
| 1993年 | 12月9日 | 東京ドーム | |
| 12月10日 | |||
| POPMART TOUR | |||
| 1998年 | 3月5日 | 東京ドーム | |
| 3月11日 | 大阪ドーム | ||
| VERTIGO//2006 JAPAN | |||
| 2006年 | (アーティスト側の都合により、11月に延期) |
||
| 11月29日(振替公演) | さいたまスーパーアリーナ | ||
| 11月30日(振替公演) | |||
| 12月4日(振替公演) | |||
| THE JOSHUA TREE TOUR 2019[219] | |||
| 2019年 | 12月4日 | さいたまスーパーアリーナ | |
| 12月5日 | |||
脚注
注釈
- ↑ 多くのU2関連本には、この時のライブが生徒に大いに受けたと記述されているが、『U2: The Definitive Biography』には、「音が大きく、雑で、何の曲なのかほとんど分からないような代物だった。生徒たちの大半は困惑したような顔で眺めるか、耳を塞いでいた」と記され、「私はただ、早く終わってほしいと思っていた」「別のグループも演奏したんだけど、私はそっちのほうが好きだった」という生徒の声が紹介されている[28]。
- ↑ U2が飛躍するきっかけとなった出来事だが、コンテストに出場したフラン・ケネディという人物は、「正直言って彼らが勝ったとき、みんな唖然としました。だって本当にひどかったんだから! ボノの声がやたらでかくて耳障りだったことは覚えています。金属ボタンと肩章のついたダブルのジャケットを着ていたかな。彼らの出す音はまったくお話にならないと僕らは心から思いました。基本的なことしかできないミュージシャンで、楽器をあまり上手に弾けなかった。当時は初心者に毛が生えた程度でした」と後に回想している[42]。
また、コンテストの審査員は、CBSアイルランドのマーケティング・マネージャー、ジャッキー・ヘイデン、RTEテレビのビリー・ウォールで、ウォールは他のバンドには目もくれず、U2だけと接触していたのだという。他の参加者はこのコンテストの結果に縁故主義の臭いを嗅ぎ取っていた。 - ↑ 当初、バンド活動に一番熱心だったのは、アッパーミドルクラスから落ちこぼれそうになっていたアダム・クレイトンで、それにボノとエッジが引きずれらるように本気になっていった。しかし、高校卒業後、石油探査会社のバイク便の仕事に就いて安定収入を得ていたラリーは、バンドの行く末に懐疑的だった。 また、当時のラリーはドラマーとしての技術が稚拙で、バンドはラリーを解雇することを本気で考えていた。しかし、ラリーの母親が交通事故で亡くなったことにより、この話は立ち消えになった[51]。
- ↑ とはいえ、当時のアイルランドの音楽シーンのレベルは低かった。インディーズ・レーベルの先駆けであったるスティッフ・レコードの創設者、デイヴ・ロビンソンは、U2のデモ・テープを聴いた時の感想を以下のように述べている。 「彼らは、似非パンク・ポップ・バンドみたいだった。ものすごくアイルランド的だった。アイルランドでは、イギリスやアメリカのポップ・チャートを盲目的に追いかけ、演奏できるライブもほとんどなく、それでいてかなり早い段階からテレビに出演できてしまうから、バンドはあまり成長しなかった。音楽を深く掘り下げる必要がなかったんだ。だから、トップに立つには並外れて優れていなければならない、というような状況ではなかった。『ミルクのてっぺん』まで行くのに必要だったのは、ただクリーミーであることだったんだ」[52]
- ↑ 2001年9月1日、エレヴェイション・ツアーのスレーン城公演で、U2は「アウト・オブ・コントロール」を演奏した。曲中、ボノ、ロンドンへ渡ってレコード契約を獲得するため、父親に500ポンドを借りたことを語った。また、ラリー・マレンの父親、エッジの両親、アダムの家族からも、それぞれ500ポンドの援助を受けたことに感謝を述べた[57][58]。
- ↑ ロンドンの音楽ジャーナリストであるパオロ・ヒューイットによる当時のU2評。 「当時は、緊張感のあるグループがたくさんいて、世の中にあまり喜びがなかった。ジョイ・ディヴィジョンやコムサット・エンジェルズのようなバンドが活動していた、かなり陰鬱な時代で、知的な側面が重視されていた。その一方で2トーンのシーンもあったけれど、そこには右翼的なスキンヘッドの動きが深く入り込んでいた。だから、とても陽気な音楽である2トーンでさえ、かなり政治的なものになっていた。僕はマッドネスをエレクトリック・ボールルームへ見に行ったことがあるけれど、そこには2000人ものスキンヘッドがいて、こちらの血を求めるように叫んでいた。 そんなところへU2が登場した。彼らには情熱があり、推進力があり、明るく前向きで、しかもボーカリストが実際に歌おうとしていた。当時は誰もほとんど歌っていなくて、ただぼそぼそとつぶやいているような状態だった。エッジの流動的なギター・サウンドと、ボノの情熱的な歌声、そしてステージ上での存在感が組み合わさって、『すごい!』と思わせた。すべてを突き抜けていたんだ」[70]
- ↑ 初期のU2において、バンドを強力に牽引していたのはフロントマンであるボノの圧倒的な熱量とカリスマ性であった。パブでの小規模なライブの時点から、彼はステージ上でひざまずいたりバーの椅子に飛び乗ったりと、非常に演劇的なパフォーマンスを展開していた[71]。当時の関係者たちは「何よりもボノのエレクトリックなパフォーマンスに心を奪われた」[72]、「ジ・エッジの流麗なギターとボノの情熱的な声、そしてステージでの存在感が合わさることで、すべてを切り裂くようなインパクトを与えていた」と証言している[73]。 しかし一方で、ボノのその過剰な熱量は宗教的な言動にも結びつき、バンドの周囲に大きな困惑と軋轢を生み出していた。当時、ボノらメンバー3人はキリスト教の信仰集団「シャローム」に深く傾倒しており、彼らが「ボーン・アゲイン(新生)クリスチャン」になったという噂は、ダブリンの音楽シーンに「軽い苛立ちと困惑」をもたらした[74]。 さらに、音楽誌『Sounds』のジャーナリストに対してボノが公然と「自分はクリスチャンだ」と宣言した際、記者は「冗談じゃない」と呆れ返ったという。ライブでのカリスマ性は時として「ステージがかった、救世主(メシア)のような振る舞い」として受け取られ、これに嫌気がさした同記者がU2を取材対象から外すという事態まで引き起こしている[75]。
- ↑ この話は通説となっている。しかし当時、この話を信じる人はほとんどおらず、単にボノが歌詞を書きあぐねているだけと考えられていた。2004年にそのブリーフケースが発見されたが、そこに書かれていたのは、候補となる曲名とステージでの曲紹介を書き留めたリストにすぎなかった[84]。
- ↑ この頃のシャロームの信者は60人ほどで、ダブリン県ポートレインの海岸沿いにキャバンを何台も止め、活動拠点としていた。その集会では、信者たちは聖霊に身を委ね、早口で異言を語り、恍惚状態で泣きわめていた。中には気を失う者までいたという[86]。
- ↑ U2を取り巻く環境も変わった。狭いツアーバスの中で何時間も過ごしたり、一般の旅客機に乗ったりする日々は終わり、4発エンジンを搭載した旧式のヴィッカース・バイカウントを専用機として使用するようになった。空港からホテルまでは運転手付きのリムジンに乗り、宿泊に利用するホテルも、ニューヨークのパーカー・メリディアン・ホテル、フィラデルフィアのハーシー・ホテル、クリーブランド中心街のストーファーズ・イン・オン・ザ・スクエアなどの高級ホテルばかりとなった[98]。
- ↑ ライブ・エイドは大規模な人道支援を実現した一方、その援助がエチオピアの政治的・軍事的状況を十分に考慮していなかったとの批判も受けている。援助専門家デイヴィッド・リーフらは、飢饉の背景に内戦とメンギスツ政権による強制的な政策があったにもかかわらず、欧米のメディアやチャリティー活動では政治的要因が十分に伝えられなかったと指摘した。 さらに、援助資金や食料が政府による強制移住や農業集団化に利用され、結果として戦争や人道的被害を長期化させたとの批判もある。国境なき医師団(MSF)はこうした政策への協力を拒否して国外追放され、強制再定住によって多数の死者が出たと主張した。 一方、ボブ・ゲルドフはNGOへの批判に反対し、人口移送などの問題を理由に援助を制限すべきではないと主張した。この問題は、善意による大規模な人道援助であっても、現地の政治体制や軍事利用の問題を無視すれば、意図せず加害者を利する可能性があるという、国際援助が抱える複雑な倫理的問題を浮き彫りにした。
- ↑ しかし、セルフ・エイドは、前年のライブ・エイドと同様に、マーガレット・サッチャーやロナルド・レーガン推進した新自由主義的な経済政策に沿ったものだとして、多くの批判を受けた。こうした政策は、社会福祉に対する責任を国家から個人へと移すものとされた。 U2は「リベラルの偽善」を批判され、雑誌『In Dublin』はボノの写真を表紙に掲げ、「偉大なるSelf-Aidの茶番――人民に対するロック(The Great Self-Aid Farce—Rock Against the People)」と題した痛烈な特集記事を掲載した。 当日のU2は、ボブ・ディランの「Maggie's Farm」を取り上げ、サッチャー政権を激しく糾弾する一方、「バッド」の演奏中に「安っぽいダブリンの雑誌」について怒りをぶちまけた。『ホットプレス』のナイル・ストークスは後に、この日のステージを「彼らのキャリア全体を通じて、最も暗く、最も激しいセット」と評した[105]。
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関連項目
外部リンク
U2 (曖昧さ回避)
(U-2 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/24 17:32 UTC 版)
U2、U-2、U.2
- U2 - アイルランド出身のロックバンド。
- U2 (潜水艦) - ドイツ帝国海軍の潜水艦。
- U2 - イージージェットのIATA航空会社コード。
- U2 - ベルリン地下鉄2号線の路線記号。
- U2 - 作曲家あきやまうにの別名義。
- U-2 (航空機) - アメリカ空軍の偵察機。
- ポリカールポフ U-2 - ソ連赤色空軍などの練習機、Po-2の旧称。
- U.2 - 情報機器の接続規格の一つ。
- UボートII型 - ドイツ海軍の潜水艦。
- シーメンス/デュワグU2形電車 - シーメンス社とデュワグ社によって製造されたライトレール向け電車(LRV)。
- ONOMICHI U2 - 広島県尾道市にある複合商業施設。
- 自動車メーカー、マツダのマツダ本社工場における、宇品第2工場の通称「U2」。
関連項目
U2
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 01:25 UTC 版)
「14歳のころにU2のテレビ出演を見て以来のU2ファン」と公言している。デビュー当時からU2を目標としており、「U2になるのが俺のデカい夢」とインタビューで語っていた。また、2008年には「自分の事をオアシスのエッジだと思ってる」との発言もある。90年代後半のU2低迷時代から現在に至るまでU2を敬愛しており、ボノから「メディアがU2を大して取り上げてくれなくても、ノエルはいつもU2の偉大な擁護者であり続けてくれた」という言葉を贈られた。一番好きなアルバムは『アクトン・ベイビー』であり、デビュー前にそのアルバムツアーであるZOO TV ツアーを見に行き、「それまでの自分の人生で見た事がないくらい凄いと思った」と語っている。またアクトン・ベイビー収録の「ワン 」を「今まで書かれた中で一番偉大な名曲」と評している。そのため、ノエルはボノに対し「ボノはアフリカについては一言も喋らずにワンを演奏するべきだ」という発言も行っている 。
※この「U2」の解説は、「ノエル・ギャラガー」の解説の一部です。
「U2」を含む「ノエル・ギャラガー」の記事については、「ノエル・ギャラガー」の概要を参照ください。
「U-2」の例文・使い方・用例・文例
- 平山選手とU-23チーム,アテネ五輪への道に次の1歩を踏み出す
- 彼は,2月8日のU-23イラン代表戦,2月11日のロシア代表戦でプレーした。
- U-23日本代表の山本昌(まさ)邦(くに)監督は,「平山選手は世界ユース選手権で見事な成果を挙げた。彼は合宿でも伸びてきている。彼は自分自身の力で日本代表に加わったのだ。」と話した。
- U-22サッカー日本代表が好調な滑り出し
- U-23日本代表の関(せき)塚(づか)隆(たかし)監督は「五輪への出場を決めたが,これは出発点にすぎない。」と語った。
- 日本がU-23アジア選手権で優勝,リオ五輪の出場権を獲得
- U-23(23歳以下)アジア選手権の決勝が1月30日に行われた。
「U-2」に関係したコラム
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株式の投資判断とは、証券会社などの証券アナリストが銘柄を分析して投資判断を下すことです。投資判断では、「1、2、3」のような数字で表現したり、「売り、買い、中立」、「Underweight、Overw...
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