第二次印パ戦争とは? わかりやすく解説

第二次印パ戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/12 21:16 UTC 版)

第二次印パ戦争

破壊したパキスタン軍M4中戦車の前で写真を撮るインド軍兵士
戦争:印パ戦争
年月日1965年8月 - 9月23日
場所:印パ西部国境
結果:国連の仲裁により停戦
交戦勢力
インド パキスタン

第二次印パ戦争(だいにじいんパせんそう)は、インドパキスタンの間で1965年に行われた戦争。第一次印パ戦争に引き続いてカシミール地方の領有をめぐって行われた。

概要

1947年から1948年の第一次印パ戦争後、カシミール地方については、両国で分割したままの実効支配が続き、最終的な帰属は決定されなかった。停戦監視のため、国際連合インド・パキスタン軍事監視団 (UNMOGIP) が派遣されていたが、不穏な状態が続いていた。

1962年中印国境紛争で、アクサイチン中国人民解放軍が侵攻、中華人民共和国が実効支配をするようになると、パキスタンもそれに影響を受け、1965年8月には武装集団をインド支配地域へ送り込んだ。これにインド軍が反応し、第二次印パ戦争が勃発した。

インド軍はパンジャーブでも攻勢を行い、パキスタンは守勢を取らざるを得なかった。国際社会の圧力により、両国は9月20日の国際連合安全保障理事会決議211を受諾し、9月23日には停戦となった。その後は、UNMOGIPおよび国際連合インド・パキスタン監視団 (UNIPOM) により停戦監視が行なわれた。タシュケントにおいて、1966年1月4日より和平協議が開始され、1月10日に両軍の撤退が合意された(タシュケント宣言英語版)。これに基づき2月25日までに、1965年8月以前の位置へと軍を撤退させている。

関連項目

外部リンク


第二次印パ戦争(1965年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 07:09 UTC 版)

M47パットン」の記事における「第二次印パ戦争(1965年)」の解説

アサル・ウッターの戦い英語版)でパキスタン陸軍第1機甲師団M48M24軽戦車合わせ220輌以上を投入。しかし雨季のため湿地となったサトウキビ畑キルゾーン引き込まれ機動力失いインド陸軍センチュリオン戦車による待ち伏せ攻撃を受け、72輌のM47/48を含む97輌を失った以後現地が「パットンナガー(パットン墓場)」と呼ばれるうになる程の大敗であった

※この「第二次印パ戦争(1965年)」の解説は、「M47パットン」の解説の一部です。
「第二次印パ戦争(1965年)」を含む「M47パットン」の記事については、「M47パットン」の概要を参照ください。

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