第二次即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 03:57 UTC 版)
失脚したミンターシュはシリアでバルクークに対する反抗を続けており、1391年にバルクークはミンターシュの逃走を助けたヤルブガー・アンナーセリーを処刑する。ミンターシュの協力者であるベドウィンの族長ヌイールが領地と引き換えにミンターシュを引き渡すことを申し出、バルクークは提案を受け入れた。1393年にアレッポの総督に引き渡されたミンターシュは斬首され、彼の首はカイロのザウィーラ門に掲げられた。バルクークはバフリー・マムルークを追放し、彼らの領地を同郷のブルジー・マムルークに与えたが、なおも反乱に対処しなければならなかった。 1392年にオスマン帝国のバヤズィト1世から使者が送られ、ティムールの侵攻に備えることを勧められた。また、この時に病に悩むバヤズィト1世は医師の派遣も要請し、バルクークは医師シャムスッディーンをオスマンの宮廷に派遣した。 1393年にティムールに敗れて首都バグダードを追われたジャライル朝の君主アフマド・ブン・アウィスがカイロに亡命し、バルクークはアフマドを迎え入れて彼の姪を妻に迎えた。バルクークはティムールとの戦闘に備えて軍隊の再編に着手し、ティムールの元から強い語調で降伏を求める書簡が送られた。1394年にバルクークはアフマドに軍隊と物資を与えてバグダードに送り出し、カラ・ユースフの支援を受けたアフマドはバグダードを奪回した。同年にエジプトのベドウィンがカラク方面のベドウィンと連携しての、バルクークがティムールとの戦いでカイロを留守にする隙をついた反乱を企てた。翌1395年にバルクークは自らティムール討伐の軍を率いてアレッポに進み、情勢を静観した。ティムールが本国に引き上げたため、年末にバルクークもカイロに帰国した。 1398年、大厩舎長官ヌールーズ・アルハーフェズィーが反乱を起こす。 1398年にバルクークは子のファラジュ、アブド・アルアズィーズ、イブラヒムへのスルターン位の継承を決定し、彼らを後見する摂政院を設置した。1399年6月20日、バルクークは食中毒によって病没する。
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