第二次合戦で岡崎城と松平広忠は織田方であったとする説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 14:22 UTC 版)
「小豆坂の戦い」の記事における「第二次合戦で岡崎城と松平広忠は織田方であったとする説」の解説
前述のように、松平広忠と岡崎城が第二次合戦の半年前に織田方に降伏してしまったとした場合、松平広忠はいつまで織田方にいたのか(反対に言えば今川方に寝返ったのか)によって第二次合戦の解釈が全く違うものになってくる。これについて、村岡幹生は岡崎城が落城したとされる天文16年9月の下旬に発生した渡河原の戦いの段階で広忠と岡崎城が今川方に復帰していた(織田軍が撤退した直後に寝返った)可能性も排除できないとする一方で、第二次合戦当時は広忠も岡崎城も共に織田方で、同合戦での今川氏の勝利後に今川方に復帰した可能性が強いとした。その根拠として、①『三河物語』には松平勢の動向が全く出て来ないこと。②『松平記』でも岡崎衆を率いているのは今川氏家臣の朝比奈信置である。③この岡崎衆が岡崎城から出陣して東から来る今川軍と合流したとすると、西から矢作川を渡ってくる織田軍に岡崎城の留守を狙われることになる。④反対に広忠の部隊が岡崎城にいたとしても小豆坂から岡崎城の傍を通って矢作川を渡って撤退する織田軍を迎撃・追撃した記録がないのは不自然である。⑤以上の点からして、松平広忠及び岡崎城が今川方であるとすると、織田軍に内通したと疑われても仕方がないレベルの背信行為を行っている。として、第二次合戦での岡崎城と松平広忠は織田方についており、今川氏の勝利後に今川方に復帰した可能性が高いとみている。なお、ここで問題になる今川軍にいた「岡崎衆」の存在であるが、村岡は織田軍への降伏を肯んじえずに今川氏を頼って「牢人」となった松平氏家臣であろうと推測する。つまり、この説に基づくと、当時の松平氏は広忠に従って織田氏に降った家臣とそれを拒否して今川氏を頼った家臣に割れていたことになる。 ただ、村岡の岡崎城攻略と松平広忠の織田方へ降伏した説を支持する研究者でも小豆坂の戦い段階では松平広忠が既に今川方に復帰していたとする見解もある。例えば、柴裕之は『武家聞伝記』に天文17年に斎藤利政(道三)の説得によって織田大和守と松平広忠が挙兵したことが記されており、この時に広忠が今川方に接近した結果として小豆坂の戦いが起きたとしている。この説によれば、斎藤道三と松平広忠の同盟の存在とともに、道三の働きかけが第二次合戦の原因の1つであったことになる。
※この「第二次合戦で岡崎城と松平広忠は織田方であったとする説」の解説は、「小豆坂の戦い」の解説の一部です。
「第二次合戦で岡崎城と松平広忠は織田方であったとする説」を含む「小豆坂の戦い」の記事については、「小豆坂の戦い」の概要を参照ください。
- 第二次合戦で岡崎城と松平広忠は織田方であったとする説のページへのリンク