第二次国共合作の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 14:32 UTC 版)
1937年7月7日、盧溝橋事件が起こると、7月8日、共産党は局地解決反対を全国に呼びかけ、7月11日、周恩来が抗日全面戦争の必要を蔣介石に強調するなど、共産党は国民党に対日抗戦を迫った。7月19日、日中全面戦争に極めて慎重であった蔣介石は、「最後の関頭」演説を公表して抗日の決意を表明したが、第29軍を北平・天津から撤退させて日本軍と妥協しようとした。また、冀察政務委員会も日本軍と妥協を図って積極的抗戦を避けた。このため共産党は、7月23日に「第二次宣言」を発して、全面抗戦・徹底抗戦の実行を強調した。 7月21日、蔣介石に反対していた西南派の李宗仁・白崇禧・黄旭初らも蔣介石擁護の意向を表明した。また、7月から8月にかけて枕鈞儒・章乃器らの「抗日救国七君子」をはじめ、郭沫若や陳独秀など、三百人あまりの政治犯が釈放された。7月28日、北支における日中両軍の全面衝突が起こると、蔣介石は最後まで抗戦する決意を再び表明した。南京政府の抗日体制は強まり、8月8日、蔣介石は「全将兵に告ぐ」と題する演説を行い、抗戦の決意を三度表明した。 8月13日、第二次上海事変が勃発すると、国共合作と抗日民族統一戦線は飛躍的に発展した。8月22日、国民政府は、紅軍を改編して国民革命軍第八路軍とすることを正式に公布し、朱徳を八路軍総司令に、彭徳懐を同副指令に任命し、三個師をその指揮下に入れた。国民政府から武器、弾薬、資金が補給された。9月9日、南京政府は国防最高会議を組織し、同会議の主席に蔣介石、副主席に汪兆銘が就任し、周恩来、朱徳らも参加した。9月22日、共産党中央委員会の「国共合作に関する宣言」が発表され、9月23日、蔣介石の「国共両党の第二次合作に関する談話」が発表された。 共産党は「国共合作に関する宣言」において、「国難極端に厳重にして民族生命の存亡の危機にあたって、我等は祖国の危亡を回復救助するために平和統一・団結禦侮の基礎の上に、すでに中国国民党と了解を得て共に国難に赴くこととなった」と国共再合作の了解が成立した意義の重大性を強調し、①孫文の三民主義の徹底的実現のために奮闘する②国民党政権を破壊する一切の暴動政策および赤化運動を取り消し、暴力をもって地主の土地を没収する政策を停止する③現在のソビエト政府を取り消し、民権政治を実現して全国政権の統一を期する④紅軍の名義および番号を取り消して国民革命軍に改編し、国民政府軍事委員会の指揮を受け、その出動命令を待って抗敵前線の責任を分担する、ことを国民党と全国民に誓った。 9月6日、共産党は実効支配地域の中華ソビエト共和国を廃止して中華民国陝甘寧辺区政府に改編して国民政府行政院直轄区となった。 9月27日、中国共産党中央委員会主席の毛沢東は「国共合作成立後のさし迫った任務」と題する声明を発表し、国共合作が成立したことの意義を確認した。10月2日、華中・華南に遊撃中の中共軍約1万が「新四軍」として再編成されることが国民政府から指示され、軍長に葉挺、副軍長に項英が任命された。南京陥落後の12月25日、共産党は「時局に対する宣言」を発表して国共両党の提携と徹底抗戦を改めて声明した。
※この「第二次国共合作の成立」の解説は、「国共合作」の解説の一部です。
「第二次国共合作の成立」を含む「国共合作」の記事については、「国共合作」の概要を参照ください。
- 第二次国共合作の成立のページへのリンク