第二次変法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:21 UTC 版)
紀元前354年、元里の役(中国語版) 紀元前353年の桂陵の戦いで魏が斉に大敗すると、紀元前352年には変法で蓄えられた力を使い秦は魏に侵攻し、城市を奪った(安邑・固陽の役(中国語版))。同年、この功績で公孫鞅は大良造に任命された。 紀元前350年、秦は雍から咸陽へ遷都した。 この年に公孫鞅はさらに変法を行い、法家思想による君主独裁権の確立を狙った。今回の主な内容は以下の通り。 父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる。 全国の集落を県に分け、それぞれに令(長官)、丞(補佐)を置き、中央集権化を徹底する。 井田を廃し田地の区画整理を行う。 度量衡の統一。 秦では父子兄弟が一つの家に住んでいたが、中原諸国から見るとこれは野蛮な風習とされていた。一番目の法は野蛮な風習を改めると共に、第一次変法で分家を推奨したのと同じく戸数を増やし、旧地にとどまりづらくして未開地を開拓するよう促す意味があったと思われる。二度の変法によって秦はますます強大になった。 紀元前341年の馬陵の戦いで斉の孫臏によって魏の龐涓が敗死すると、紀元前340年には魏へ侵攻し、自ら兵を率いて討伐した(呉城の役(中国語版))。またかつて親友であった魏の総大将である公子卬(中国語版)を欺いて招き、これを捕虜にして魏軍を打ち破り黄河以西の土地を奪った。危険を感じた魏は首都を安邑(現在の山西省夏県)から東の大梁(現在の開封市)に遷都し、恵王は「あの時の公叔痤の言葉に従わなかったために、このような事になってしまった…」と大いに悔やんだという。 この功績により公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれる。
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