第二次夜戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:04 UTC 版)
先述したように日本艦隊は索敵のため南下し、連合軍艦隊も日本船団攻撃のため北上していた。2月28日0000、高木司令官は第二水雷戦隊に対し「敵情不明ニ付キ第四水雷戦隊側ニ近寄レ0000」と下令する。那智、羽黒が南下中の0時33分、両軍は会敵した。第二水雷戦隊は那智、羽黒の右舷前方(ABDA艦隊の西方15km)を南西方向に航行しており、0045時に右転舵して北上、那智、羽黒の砲雷撃戦に参加しなかった。 連合軍艦隊に最も近かったのは第五戦隊(那智、羽黒)であった。高木少将は0時40分、それまで針路180度(真南)だった戦隊の針路を反転させ針路零度(真北)とし、同航戦の態勢をとった。ドールマン少将も日本艦隊を認めると距離12,000mで照明弾を発射、続いて砲戦を開始したが、両軍ともかなりの砲弾を消費しており、更に砲員は疲れきっていた。従って互いに交互打ち方、緩斉射で応戦しあった。那智、羽黒にとってこの砲撃戦は思惑通りであり、敵艦隊に酸素魚雷が到達するまでの時間(11分30秒)を稼いでいたという。 0時52分、旗艦那智が8本、羽黒が4本の魚雷を順次発射した。那智は昼間の戦闘で人為的ミスから魚雷を発射しなかったため、夜戦で8本を一気に射出できたのである。この発射に連合軍艦隊(1番艦デロイテル、2番艦ヒューストン、3番艦パース、4番艦ジャワ)は気づかず進路を変えなかった。1時06分、デ・ロイテルの後部に魚雷1本が命中して火薬庫に引火・炎上、後続のパースとヒューストンは炎上する旗艦と魚雷を回避したが、1時10分に最後尾のジャワの艦尾に魚雷が命中、急速に沈没した。 ヒューストン及びパースは我が生存者にかまわずバタビアに避退せよ。 — カレル・ドールマン これがドールマン少将の最期の命令となった。通信が終わった直後、デ・ロイテルは沈没した。ドールマン少将以下殆どの乗員が脱出できず、救出された生存者はデ・ロイテルが17名、轟沈したジャワに至っては2名のみであった(3月1日に江風がジャワ乗組員37名を救助)。命令を受けたパースとウォーラー艦長(先任士官)はヒューストンを従えて反転すると最大戦速で海域を離脱し、バタビアへ避退して無事に入港、ヘルフリッヒ司令官にドールマン提督の戦死を伝えた。 高木少将はデ・ロイテルとジャワの撃破を確認すると、残敵掃討のため水雷戦隊との合同を図った。デ・ロイテル、ジャワの轟沈に司令部・全艦将兵が万歳を三唱しつつ見惚れていたため、ヒューストン、パースがいなくなったことに気付かなかったという。0145に那智から水偵を射出し索敵させたが、発見できなかった。ヒューストン、パースは東方のスラバヤへ避退したと誤認したためであり、この二艦が実際は西方のバタビアへ避退したので発見できなかったのである。第二水雷戦隊はデ・ロイテル、ジャワ轟沈の火柱を確認して0120に反転、0130に針路90度で敵艦隊の追跡を試みたが失敗した。二水戦司令官は、ヒューストンとパースの全速退避を敵駆逐艦が煙幕を展開して掩護したので、二水戦と四水戦は敵残存艦を捕捉できなかったと回想している。第四水雷戦隊は二水戦よりもさらに南西方向にあって、第二次夜戦には参加できなかった。0135、高木司令官は二水戦・四水戦に「船団ノ南東ヲ警戒セヨ」と下令した。第一次夜戦・第二次夜戦における弾薬消耗数は、第一次夜戦で神通が魚雷4本、第二次夜戦で那智、羽黒が20cm砲弾46発、魚雷12本である。
※この「第二次夜戦」の解説は、「スラバヤ沖海戦」の解説の一部です。
「第二次夜戦」を含む「スラバヤ沖海戦」の記事については、「スラバヤ沖海戦」の概要を参照ください。
- 第二次夜戦のページへのリンク