第二次大戦から戦没まで
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「グルィフ (機雷敷設艦)」の記事における「第二次大戦から戦没まで」の解説
1939年9月1日、グルィフは300個の機雷を乗せて10隻(ブルザ級駆逐艦「ヴィヘル」、掃海挺「ヤスクウカ」「チャプラ」「ジュラフ」「チャイカ」「ルィビトヴァ」「メヴァ」、砲艦「コメンダント・ピウスツキ」「ゲネラウ・ハルレル」) で臨時の戦隊を編成して[要出典]ヘル半島南東沖への機雷敷設に向かった。だが、その途中でドイツ空軍の急降下爆撃機ユンカース Ju 8733機による攻撃を受けた。直撃弾こそなかったものの、至近弾により掃海艇1隻が損傷し、グルィフでも戦隊司令を兼ねる[要出典]艦長以下21名が戦死した。(Battle of the Danzig Bay)グルィフの機雷は爆撃に伴う火災で誘爆を防ぐために海中投棄されて[要出典]、グルィフはヘルへと向かい、損傷がひどかったグルィフはそこで砲台とされた。9月3日、ドイツ駆逐艦レーベレヒト・マース、ヴォルフガング・ツェンカーが現れ、グルィフやヴィヘル、ヘルの砲台と交戦した。この戦闘でグルィフには2発の命中弾があり、乗員4名が戦死した。同日、グルィフはドイツ空軍による攻撃で撃沈されたが、水深が浅かったため搭載火器は回収されヘル半島の防衛に用いられた。 第二次世界大戦後の1957年に民間業者に売却されて浮揚され、1960年に解体処分され一部の武装はポーランド海軍博物館に保存された。
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第二次大戦から戦没まで
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「ブレムゼ (砲術練習艦)」の記事における「第二次大戦から戦没まで」の解説
第二次世界大戦が勃発すると、1939年9月に機雷敷設艦「タンネンベルク(Tannenberg)」と「ハンザ(Hansestadt)」の護衛として、また10月に兵員輸送艦としてバルト海からポーランド沿岸部にかけて活動した。1939年11月7日には軽巡洋艦「ライプツィヒ」と衝突している。一旦練習艦に戻ったが、1940年4月の北欧侵攻に際して第3艦隊に加わりベルゲン攻略に当たった。この時、沿岸砲台からの21cm砲弾3発が着弾して損傷。乗艦していた兵に12人の死傷者が出た。4月30日に座礁し、スタヴァンゲルで修理を行った。一度キールに戻り、10月30日に再びノルウェーへ向け出発したが11月1日に商船「ドナウ(Donau)」に衝突されて損傷。修理の後、11月26日に出港し、オスロ経由でスタヴァンゲルへ11月30日に到着した。だが12月2日にFaafjordで再び座礁。スタヴァンゲルで修理を受け、完了後ドイツに戻った。バルバロッサ作戦開始当初、バルト海において通商破壊任務を帯びていたが、程なく1941年6月に北海へ移動した[要出典]。1941年7月6日、ノルウェーへ向け出発。スタヴァンゲル、トロンヘイム経由で7月10日にトロムソに到着した。1941年7月30日、キルケネスでイギリス空母ヴィクトリアスの艦載機である20機の艦上攻撃機アルバコアと9機の艦上爆撃機フルマーからの空爆(EF作戦)を受けたが、無傷で切り抜けている。8月21日、イギリス潜水艦トライデントの雷撃を受けるが命中せず。 1941年9月7日、輸送船「バルセロナ(Barcelona)」と「トラウテンフェルス(Trautenfels)」を他の小艦艇3隻(V6103、UJ1701、R162)と共に護衛中、マーゲロイ島とノールキン岬の間でイギリス海軍の軽巡洋艦「ナイジェリア」及び「オーロラ」に攻撃された。ドイツの輸送船2隻には第6山岳師団の兵員1,500名が乗っており、ハンマーフェストからキルケネスへ向かう途中であった。ブレムゼは、輸送船の退避を支援するため交戦、輸送船の退避には成功したが夜間の砲戦において撃沈された。37名が救助されたが、160名が死亡した。
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