第二次大戦の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 23:18 UTC 版)
「1943年のメジャーリーグベースボール」の記事における「第二次大戦の影響」の解説
1943年1月、ランディス・コミッショナーは全米野球記者協会のニューヨーク支部大会に出席した。大戦が激化していく中で、野球を続けるべきか否かという議論があり、それに対して野球選手の兵役免除を主張する意見と戦争に進んで参加する意見が分かれる状況で、この席でランディスは「野球選手も市民である」ことを強調し、それをもってこの問題に対する回答とした。日本軍の真珠湾攻撃の直後にルーズベルト大統領から野球の存続に関しての一定の理解を得ていたので、メジャーリーグは存続しシーズンを開幕するが、兵役に対しては選手個人の意思に委ねることとしたのである。これで前年はまだ多くのメジャーリーガーは試合に参加していたが、この1943年から1945年の終戦まで多くのメジャーリーグの選手がグラブとバットを置き応召して太平洋及びヨーロッパに参戦していった。 春季キャンプは従来カリフォルニア州南部かフロリダ州南部で行われていたのが、この1943年からポトマック川とオハイオ川の北及びミシシッピ川の東の地方のみに練習地が限られた。そして残った選手は徴兵年齢を過ぎたロートルか17歳のルーキーなどで、「老人」と「少年」のチームとなりメジャーリーグの技術水準は著しく低下した。こういう状況になると直営のファーム組織を持っているチームが強く、ナショナルリーグではそのファームシステムの生みの親であったブランチ・リッキーGMのカージナルスで、アメリカンリーグはエド・バローGMのもとでジョージ・ワイスがファーム組織を強化したヤンキースで、この両チームが前年に続くリーグ優勝となった。 ニューヨーク・ヤンキースは野手でジョー・ディマジオ、ジョージ・セルカーク、トミー・ヘンリック、フィル・リズート、レッド・ロルフ、投手でレッド・ラフィングなどが兵役につき、残ったのはジョー・ゴードン、フランキー・クロセッティ、ビル・ディッキー捕手で、これに若いスパッド・チャンドラー投手が奮闘してリーグ優勝した。一方セントルイス・カージナルスは前年最多安打のイーノス・スローター、テリー・ムーア、ジミー・ブラウン、ジョニー・ビーズリーなどが兵役につき、実質2年目のスタン・ミュージアルやマーティー・マリオンが奮闘し、これにファームからブリチーン、ブレイズルの両投手を引き上げて、2位レッズに12ゲーム差をつけてリーグ優勝した。 セントルイス・カージナルスのスタン・ミュージアルは、打率.357で初めて首位打者を獲得した。この他に最多塁打347、最多安打220本、最多三塁打20本、最多二塁打48本を記録しこの年のリーグMVPに選ばれた。彼は翌年もプレーしたが、1945年は兵役に就いた。 ニューヨーク・ヤンキースのスパッド・チャンドラー はこの年20勝4敗、防御率1.64で最多勝・最優秀防御率の二冠を獲得、ワールドシリーズでも2試合に先発して2勝を上げ、この年のリーグMVPに選ばれた。彼はこの翌年に兵役に就いた。 ワールドシリーズは、若いカージナルスにエラーが多くでて、ヤンキースが4勝1敗で制した。
※この「第二次大戦の影響」の解説は、「1943年のメジャーリーグベースボール」の解説の一部です。
「第二次大戦の影響」を含む「1943年のメジャーリーグベースボール」の記事については、「1943年のメジャーリーグベースボール」の概要を参照ください。
- 第二次大戦の影響のページへのリンク