第二次大戦 - メキシコ亡命
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「バンジャマン・ペレ」の記事における「第二次大戦 - メキシコ亡命」の解説
1939年に第二次世界大戦が勃発。40年2月に動員された。ドイツ軍がフランスに侵攻し、ペレは政治活動のために逮捕され、レンヌ刑務所に収監されたが、混乱のなかで保釈され、ヴァロとともに南部自由地帯のマルセイユに逃れた。アメリカ合衆国への亡命を考えたが、これまでの政治活動から許可される見込みがなかったため、1941年10月にいったんカサブランカ(モロッコ)に行き、カサブランカからメキシコに向かった。アメリカ大陸との航路が途絶する直前であった。1941年12月にヴェラクルスに到着した。 ペレとヴァロはメキシコシティに居を定め、詩人オクタビオ・パス、レオノーラ・キャリントン、カティ・オルナ(英語版)、ヴォルフガング・パーレンらのシュルレアリスムの画家・写真家に再会し、活動を共にした。 メキシコでのペレの活動は主にトロツキーの寡婦ナターリア・セドーヴァ(英語版)、および第四インターナショナル・スペイン支部を率い、スペイン内戦末期にメキシコに逃れたグランディーソ・ムニス(フランス語版)らとの政治活動であり、メキシコに亡命したスペイン人トロツキストの会報『コントラ・ラ・コリエンテ (流れに逆らって)』などに多くの記事を掲載し、さらに第四インターナショナル国際書記局内部の会報にも寄稿している。ペレはこれらの記事で、独ソ不可侵条約について、「ヒトラー=スターリン協定は、ロシア反革命の歴史における決定的な転換点であり、帝国主義者同士の対立という段階への移行を記すものである」、スターリン官僚主義は、「現在のソ連に存在する国家資本主義に基づく社会階級」と「宗教的なカースト制度」を組み合わせたものであると論じ、さらに、「左翼統一戦線」という発想に反対し、標的をスターリニズムに絞るべきであると主張した。こうした立場からペレは、1946年に「聖書釈義者の声明」と題するテクストをペラルタという偽名で発表し、第四インターナショナルとの決別を表明した。 ペレにとっては文学・芸術的革命であるシュルレアリスムと社会・政治改革としての革命は分ち難いものであり、文学においても、慣用表現などの硬直した言語や体制順応主義を批判し、既成概念や既存の秩序を覆そうとする姿勢を終生貫いた。一方で、たとえ革命的な政治活動であっても、このために文学作品を利用することには反対であった。ペレがこのような態度を表明したのは、かつてシュルレアリストとして活動を共にしたエリュアール、アラゴンら22人のレジスタンス詩人のアンソロジー『詩人たちの名誉(フランス語版)』が刊行されたときのことである。これは、ナチス・ドイツ占領下のパリで作家のジャン・ブリュレル(ヴェルコール)とピエール・ド・レスキュール(フランス語版)が創設した地下出版の深夜叢書から1943年に刊行されたアンソロジーであり、ナチスの厳しい検閲・言論統制に対する抵抗運動の一環であった。編纂にあたったエリュアールは、無署名で序文を書き(寄稿者はすべて偽名である)、「アメリカ人民に鼓舞されたホイットマン、武器を取れと呼びかけたユーゴー、パリ・コミューンから霊感を与えられたランボー、みずからも奮い立ち、ひとをも奮い立たせたマヤコフスキー・・・広大な見地に立った詩人たちは行動へと導かれたのだ・・・闘争こそが詩人たちに力を与えることができる(大島博光訳)」と訴えた。『詩人たちの名誉』は民衆の共感を呼んでたちまち数版を重ね、翌1944年には欧州編が刊行され、ブラジルでも『フランス・レジスタンス詩選集』として刊行された。これに対してペレは、1945年にメキシコで「詩人たちの不名誉」と題する小冊子を発表し、「結局、これらの「詩人たち」の名誉とは、詩人を辞めて広告代理店になることなのだ・・・革命家として、革命的な方法によってナチス・ドイツの敗北に貢献するならまだしも、詩人が、その作品や作品の文化的意義とは別に、このような問題に介入するべきではない」と辛らつに批判した。『詩人たちの不名誉』はメキシコでの出版と同時に、詩人アラン・ゲールブラン(フランス語版)が同年にパリで創設したK出版社からも刊行された。
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