第二次大戦下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 07:34 UTC 版)
「ヴィクトル・ブローネル」の記事における「第二次大戦下」の解説
1940年5月にナチス・ドイツがフランスに侵攻し、同年6月22日に独仏休戦協定が締結されると、ユダヤ人であるブローネルは南部の自由地帯に逃れた。最初はペルピニャン(オクシタニー地域圏、ピレネー=オリアンタル県)に住むシュルレアリスムの詩人ロベール・リウス(フランス語版)のもとに身を寄せた。1940年10月3日にユダヤ人の身分に関する最初の法律(ヴィシー政権によるユダヤ人並びに外来者に対する法)が成立した翌10月4日に、「ユダヤ系外国人」の場合は即刻逮捕し、収容所に移送することができるとするユダヤ人排斥法が可決された。また、ヒトラーが「フランス国有の美術品」を除き、「個人蔵、とりわけ、ユダヤ人が所有する芸術品や史料は、安全な場所に保管しなければならない」とする(没収を意味する)命令を発した。ルーヴル美術館の所蔵品を疎開させた貢献によって知られる国立美術館総長でエコール・デュ・ルーヴル校長のジャック・ジョジャール(フランス語版)は、このとき、ユダヤ人個人蔵の美術品も併せて地方の古城に疎開させている。 一方、フランスのユダヤ人、反ナチ運動家らを米国に疎開させるために、エレノア・ルーズベルトの支援による緊急救助委員会 (ERC) が結成され、米国のジャーナリスト、ヴァリアン・フライ(フランス語版)がマルセイユでこの任にあたった。彼は委員会から知識人、芸術家、作家約200人の一覧を渡され、仲間とともにマルセイユに到着するとジャン=ロンバール通り63番地の18室の一軒家「エール・ベル邸」を借りた。まもなくこの館にマルセイユに逃れ、査証の発給を待つブルトン、マックス・エルンスト、ヴィフレド・ラム、バンジャマン・ペレ、オスカル・ドミンゲス、シルヴァン・イトキーヌ(フランス語版)らシュルリアリストが集まり、議論の場、優美な屍骸などの制作活動の場となったが、1941年9月にヴィシー政権により追放された。ブローネルも1940年11月にマルセイユでブルトンらに合流し、1941年から数か月間は美術品蒐集家のペギー・グッゲンハイム(フランス語版)から経済的支援を受けてこの地に滞在した。シュルレアリストらがエール・ベル邸から追放された後も、マルク・シャガール、アルマ・マーラー、ハンナ・アーレントらのユダヤ人を含む2,000人以上がフライの尽力により渡米を果たすことになったが、ブルトンのような確固たる地位も、マルセル・デュシャンやエルンストのようにペギー・グッゲンハイムの愛人として経済的な支援を受けることもなかったブローネルは、アメリカ合衆国から査証発給を拒否され、アルザス出身という偽の身分証明書だけをかろうじて手に入れた。1942年5月15日、マルセイユ港で、ブローネルの友人で最後の米国亡命者としてニューヨーク行きのリヨテ元帥号に乗船したデュシャンを見送った。フランスに残った友人は、レジスタンス運動に参加して、後にゲシュタポに逮捕され、銃殺刑に処されることになる俳優のイトキーヌ、フランスへの帰化を拒否され、パリのアトリエに隠れ住み、一度、美術品蒐集家でアリスティド・マイヨールのモデルであったディナ・ヴィエルニ(フランス語版)を介してブローネルに送金したピカソ、そしてブローネルをかくまったルネ・シャールだけであった。 ブローネルはこれ以後、ジャクリーヌとともにオート=アルプ県の小村に隠れ住んで制作を続けた。
※この「第二次大戦下」の解説は、「ヴィクトル・ブローネル」の解説の一部です。
「第二次大戦下」を含む「ヴィクトル・ブローネル」の記事については、「ヴィクトル・ブローネル」の概要を参照ください。
第二次大戦下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 18:59 UTC 版)
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ドラ・マールとピカソは西部のロワイヤン(ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏、シャラント=マリティーム県)に疎開し、ジャクリーヌ・ランバも合流した。まもなくピカソのかつての愛人でモデルのマリー=テレーズ・ワルテル(フランス語版)がピカソの娘マヤを連れて同地に疎開した。1940年6月22日に独仏休戦協定が締結されると、ドラ・マールとピカソは8月にナチス・ドイツ占領下のパリに戻った。大戦中、多くの作家・芸術家が米国に亡命したが、二人はパリに残り、同じく大戦中にパリで活動していたミシェル・レリス、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、ジャン=ポール・サルトルらと親交を深めた。 1942年4月頃にパリ6区グラン=ゾーギュスタン通りのピカソのアトリエのすぐ近くのサヴォワ通り(フランス語版)にアトリエを構えた。ピカソは翌1943年の5月に次の愛人となるフランソワーズ・ジロー(フランス語版)に出会った。1944年にピカソ作のシュルレアリスム演劇『しっぽをつかまれた欲望』がアルベール・カミュによって内輪で上演されたときには(刊行は戦後1945年)、ドラ・マール、ボーヴォワール、サルトルも出演した。
※この「第二次大戦下」の解説は、「ドラ・マール」の解説の一部です。
「第二次大戦下」を含む「ドラ・マール」の記事については、「ドラ・マール」の概要を参照ください。
第二次大戦下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 14:26 UTC 版)
「ジャン=リシャール・ブロック」の記事における「第二次大戦下」の解説
反ファシストとしてソ連を支持していたブロックは、1939年8月23日にスターリンとヒトラーが独ソ不可侵条約を締結したことに大きな精神的痛手を負った。さらに、ダラディエ内閣は『リュマニテ』紙、『ス・ソワール』紙、『コミューン』誌など共産党のすべての刊行物を発禁処分にし、さらに、集会や宣伝活動も禁止したため、生計を立てる目途がつかず、しかもユダヤ人で共産党員という二重に困難な状況にあって、ブロックは1941年に妻マルグリットとともにソ連に亡命する決意をした。1941年4月、ソ連大使館によって旅券が発行され、モスクワに到着。ソ連作家同盟とコミンテルンのフランス共産党代表アンドレ・マルティ(フランス語版)の協力を得て、以後、モスクワに滞在し、ソ連のラジオ放送のフランス語版を担当した。第1回は「一フランス人、占領地帯より到着する」と題する内容で、以後、戦況を報告する数十回にわたる放送内容は没後1949年に『裏切られたフランスより武器をもって起ち上がったフランスへ』として出版された(内容は後藤達雄訳、三一書房刊の目次を参照)。 1941年10月、モスクワの戦いが始まると、ブロックと妻マルグリットはカザン、次いでウファに避難した。ウファには1年間滞在したが、肺炎を患い、ラジオ番組の制作を中断せざるを得なかった。1942年12月にモスクワに戻ると、ラジオ番組の担当を再開する傍ら、戯曲『トゥーロン』を執筆した。この作品は、1944年にアルジェおよび他の北アフリカの都市で上演された後、戦後1945年から翌46年にかけてオデオン座で、さらに1945年には東京の前進座で上演された。 1943年末から1944年初めにかけて肺炎が悪化したうえに、家族の死の知らせが次々と届いた。母ルイーズはユダヤ人の大量検挙に遭ってアウシュヴィッツ強制収容所に送られ、1944年6月4日、86歳のときに殺害された。化学者の娘フランス・ブロック=セラザン(フランス語版)は共産党員として対独レジスタンス運動に参加したために逮捕され、ハンブルクに移送されて1943年2月12日に斬首刑に処された。彼女の夫フレデリック・ラザランも同じく共産党員・レジスタンス運動家としてロワール県サン=テティエンヌで殺害された。
※この「第二次大戦下」の解説は、「ジャン=リシャール・ブロック」の解説の一部です。
「第二次大戦下」を含む「ジャン=リシャール・ブロック」の記事については、「ジャン=リシャール・ブロック」の概要を参照ください。
第二次大戦下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 10:04 UTC 版)
1938年、チェコの女優リダ・バーロヴァと夫の不貞がマクダの知るところとなった。ゲッベルスはマクダと別れてリダと結婚し、ドイツを離れて日本大使になることも考えていたが、「看板夫婦」の離婚は避けたいヒトラーが仲裁に入り、ゲッベルスはリダと別れた。リダの出演映画はドイツで上映禁止となった。 1939年にナチス・ドイツはポーランドに侵攻し、英仏両国が参戦。1941年にモスクワ侵攻(バルバロッサ作戦)に失敗すると、ゲッベルスはヒトラーとヘルマン・ゲーリング国家元帥を批判することが多くなる。その頃のマクダは子供たちと共に野戦病院を訪れるというプロパガンダ映画を撮ることが多かったが、子供たちにとっては恐怖と苦痛の伴う経験であり、マクダ自身も陰では酒に癒しを求めていた。激しくなるベルリンへの空襲を避けて、マクダと子供たちは疎開をするが、1943年頃よりマクダは気を失うほどの三叉神経痛に悩まされるようになり、1944年8月には入院している。 すでに敗戦は決定的であり、マクダは「ロシア人がベルリンに足を踏み入れた時がその時よ」と覚悟を語っていた。1945年4月20日、ソビエト赤軍がベルリンに入り、ベルリンの戦いが始まる。22日、ゲッベルスは妻子を総統地下壕に連れて来させたが、子供たちには「持ち込む着替えは少し、おもちゃも一つだけ」と制限して、野営用の簡易ベッドを入れた一部屋を使わせた。地下壕のバスルームはヒトラー用に一つあるだけだったが、ヒトラーはマクダと子どもたちの使用を許している。軍需相アルベルト・シュペーアらからは、折を見て子供たちを安全な場所に避難させようという申し出もあったが、マクダはこれを拒否した。マクダは時折子供たちに周囲を明るくさせるような歌を歌わせていたが、自らは次第に言葉を発しなくなっていった。29日、立会人としてヒトラーとエーファ・ブラウンの結婚を見届けるが、翌日ヒトラーとエーファは自殺する。ヒトラーの遺言を受けてゲッベルスはナチス・ドイツの首相に就任、赤軍から無条件降伏を求められたが拒否したため交渉は決裂した。
※この「第二次大戦下」の解説は、「マクダ・ゲッベルス」の解説の一部です。
「第二次大戦下」を含む「マクダ・ゲッベルス」の記事については、「マクダ・ゲッベルス」の概要を参照ください。
- 第二次大戦下のページへのリンク