第一次変法とは? わかりやすく解説

第一次変法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:21 UTC 版)

戦国時代 (中国)」の記事における「第一次変法」の解説

紀元前356年孝公公孫鞅を左庶長に任じ変法へんぽう)と呼ばれる国政改革断行する。これは第一次変法と呼ばれる主な内容以下の通り戸籍設け民衆五戸(伍)、または十戸(什)で一組分ける。この中で互いに監視告発する事を義務付け、もし罪を犯した者がいて訴え出ない場合什伍全て連座して罰せられる逆に訴え出た場合戦争で敵の首を取ったのと同じ功績になる。 一つの家に二人上の成人男子いながら分家しない者は、賦税倍加させられる戦争での功績には爵位を以て報いる私闘をなすものは、その程度に応じて課刑させられる男子農業女子紡績などの家庭内手工業励み成績がよい者は税が免除される商業をする者、怠けて貧乏になった者は奴隷身分に落とす。 遠縁宗室貴族といえども戦功のない者はその爵位降下する法令社会規範要点とする。 まず、民衆に法をしっかりと執行することを信用させるために、三丈もの長さの木を都である雍の南門植え、この木を北門移せば十金を与えよう布告した。しかし、民衆はこれを怪しんで、木を移そうとしなかった。そこで、賞金五十金にした。すると、ある人物が木を北門移したので、公孫鞅布告通りに、この人物に五十金を与えた。こういったことで、まずは変法への信頼を得ることができた。 しかし、最初新法成果上がらず民衆からも不満の声が揚がったが公孫鞅は意に介さなかった。公孫鞅は法がきちんと守られていない考えた孝公13年紀元前349年)、太子の嬴駟(えいし)(後の恵文王)の傅(後見役)である公子虔(中国語版)が法を破ったのでこれを処罰する事を孝公願い出た公子虔を鼻削ぎの刑に処し、また教育係公孫賈を額への黥刑に処し、さらにもう一人太子侍従の祝懽を死刑処したこのため公子虔・公孫賈の両人恥じて外出しなくなり公孫鞅憎悪したという。この後全ての人が法を守ったそうすると法の効能出始め10年もすると田畑見事に開墾され兵士精強になり、人民暮らし豊かになり、道に物が落ちててもこれを自分の物にしようとする者はいなくなった。はじめ不満を漏らしていた民衆たちも手のひら返したように賞賛の声を揚げたが、公孫鞅は「世を乱す輩」として、容赦なく辺境の地流した。これにより、法に口出しする者はいなくなり変法」は成功を収める

※この「第一次変法」の解説は、「戦国時代 (中国)」の解説の一部です。
「第一次変法」を含む「戦国時代 (中国)」の記事については、「戦国時代 (中国)」の概要を参照ください。

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