第一次大戦 - 兵役志願、負傷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 06:03 UTC 版)
「ギヨーム・アポリネール」の記事における「第一次大戦 - 兵役志願、負傷」の解説
1914年7月、文芸新聞『コメディア(フランス語版)』からの依頼で、画家・風刺漫画家のアンドレ・ルーヴェール(フランス語版)とともにカルヴァドス県ドーヴィルの夏の音楽・芸術の祭典を取材することになった。だが、第一次大戦の勃発により7月31日に総動員令が発せられたため、急遽、パリに戻った。現在目にすることのできるアポリネールの動画は、このとき、ポワソニエール大通りのある店舗で実験的に撮影されたものである。 総動員令が発せられたとはいえ、アポリネールのような外国人は対象外であり、志願したとしても許可が下りるのは難しかったが、にもかかわらず、彼は8月10日、帰化申請と併せて兵役に志願した。9月に戦争の脅威が迫るパリを離れて南仏ニースに向かった。許可が下りるのを待つ間に、ルイーズ・ド・コリニー=シャティヨン(フランス語版)(通称「ルー」)に出会った。かつてジュヌヴィエーヴ=マルグリット=マリー=ルイーズ・ド・ピヨー・ド・コリニー=シャティヨン伯爵夫人を名乗った女性だが、2年前に離婚し、当時はサン=ジャン=カップ=フェラの従姉のもとに身を寄せていた。アポリネールは彼女宛に1914年9月28日から1916年1月18日までの間に220通の手紙を書いている。また、ルー宛の手紙に書かれた詩は没後『ルー詩篇』として刊行されることになる。 12月4日に兵役志願の許可が下り、12月6日にニームの野戦砲兵第38連隊に入隊した。年末に休暇を取ってルーに会いにマルセイユに行ったが、ルーにとっては戯れの恋にすぎないことをアポリネールは感じ取っていた。1915年1月2日、休暇から戻る車中で、アルジェリア人(オラン在住)の女性マドレーヌ・パジェス(フランス語版)に出会った。これ以後、ルーに対してと同様に、マドレーヌ宛に200通余りの手紙を送り、後に『マドレーヌへの秘めごとの詩篇』(1949年、代表的な性愛の詩として知られる「きみのからだの九つの扉」を含む)および『思い出のように優しく』(1952年)と題して刊行されることになる。アポリネールはマドレーヌの母親に結婚を許可され、1915年末の数日の休暇を婚約者としてオランのマドレーヌの家で過ごすことになった。 この間、1915年11月18日に、アポリネール自身の希望によりマルヌ県タユール(フランス語版)の第96歩兵連隊に配属された。1916年3月9日に帰化申請が許可された。だが、この直後の3月17日、最前線の塹壕で流れ弾を受けた。弾丸はヘルメットを貫通して右のこめかみに食い込んだ。野戦病院で応急手術を受けた後パリに移送され、3月28日にヴァル・ド・グラース病院に入院したが、友人セルジュ・フェラが勤務していたイタリア病院に転院することになった。さらに、この外傷により血腫が生じ、5月にヴァル・ド・グラース陸軍病院別館で開頭による血腫除去術が行われた。多くの友人が見舞いに来た。その一人が、かつてモンパルナスで会った女性、アポリネールが「きれいな赤毛の女」と呼んだジャクリーヌ・コルブ であった。ジャクリーヌは献身的に看病した。1916年5月17日、クロワ・ド・ゲール勲章(フランス語版)を受けた。
※この「第一次大戦 - 兵役志願、負傷」の解説は、「ギヨーム・アポリネール」の解説の一部です。
「第一次大戦 - 兵役志願、負傷」を含む「ギヨーム・アポリネール」の記事については、「ギヨーム・アポリネール」の概要を参照ください。
- 第一次大戦 - 兵役志願、負傷のページへのリンク