第一次大戦の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 03:55 UTC 版)
「1918年のメジャーリーグベースボール」の記事における「第一次大戦の影響」の解説
1914年8月に始まった第一次世界大戦にアメリカは参戦していなかったが、1917年4月にウイルソン大統領は参戦を決意しドイツに宣戦布告した。1917年はメジャーリーグでも数人が志願して兵役についたが、野球開催に関しての影響は少なかった。しかし1918年に入ると戦局が急を告げて、選手たちがぞくぞくと召集を受け、一般国民の戦意の高揚とともに野球に対する関心が衰え始め、野球界にとって冬の時代であった。この年に曲がりなりにも試合を消化できたのはメジャーリーグとマイナーのインターナショナルリーグだけで、他のマイナーリーグは選手の不足と経営の不振で崩壊状態であった。 そのためアメリカン・リーグのバン・ジョンソン会長は危機感を持ち、ワールドシリーズの中止を検討するが他の球団オーナーが反対する事態となった。そして軍の要請(仕事か戦闘かを迫るものであった)を受け入れて、8月2日にレギュラーシーズンを9月1日で打ち切りとすることを決め、この結果合計226試合が中止となった。しかしペナントレースは中断されたがワールドシリーズは特別措置として開催が認められて、9月5日から行われた。 アメリカン・リーグのレッドソックスは、ベーブ・ルースが投手で20試合に登板して13勝7敗の成績を収め、そして外野手として59試合、一塁手として13試合出場し、打率.300・本塁打11本・打点66を打って本塁打王となり、そのバッティングに注目が集まって、レッドソックスの投打の中心となり、他にもカール・メイズ(21勝)がいた。 一方ナショナル・リーグのシカゴ・カブスも強力な投手陣がいてヒッポ・ボーン(22勝)、レフティー・タイラー(19勝)、クロード・ヘンドリックス(19勝)らが活躍した。 そしてワールドシリーズでは、ベーブ・ルースが2勝、カール・メイズも2勝してレッドソックスがシリーズを制した。 シカゴ・カブスのヒッポ・ボーン投手はこの年にピート・アレクサンダーがカブスに移籍してきたが、第一次世界大戦に派兵されたため、ボーンとタイラーとヘンドリックスでカブスの投手陣を支えた。そしてこの年ボーンはナショナルリーグの最多勝22勝・最優秀防御率1.74・最多奪三振148で投手三冠を達成する最高のシーズンとなった。彼は翌1919年も最多奪三振を記録した。 ブルックリン・ロビンスの ザック・ウィートは、この年に打率.335で首位打者となった。タイトルはこの年の首位打者だけだったが、1909年から1926年までブルックリン・ロビンス(後のドジャース)に、1927年はコニー・マックのアスレチックスに1年在籍して引退した。外野手として評価が高く、後にブランチ・リッキーがブルックリン史上最高の外野手と述べ、長い間ロビンスで人気があった選手である。ライン・ドライブをよく打ち、カーブ打ちの名人で、ジャイアンツのジョン・マグロー監督が「ポログラウンドでは絶対に彼にカーブを投げるな」と投手陣に厳命したほどであった。生涯通算打率.317で1959年に殿堂入りした。 フィラデルフィア・フィリーズはピート・アレクサンダーの徴兵を恐れて前年末にアレクサンダーをカブスに金銭トレードで放出した。このフィリーズの予想通り彼は1918年のシーズンに入ってすぐに徴兵され、第一次世界大戦でフランス戦線に出征した。この年は結局3試合に登板しただけであった。フィリーズには1930年に戻ってきたが1勝も挙げられなかった。
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