フランス戦線
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「第4装甲師団 (ドイツ国防軍)」の記事における「フランス戦線」の解説
1940年、フランス侵攻が始まると第4装甲師団はエーリヒ・ヘプナー将軍率いる第16装甲軍団の一部としてこれに参加した。同装甲軍団はフォン・ライヒェナウ将軍率いる第6軍に所属しており、エヴァルト・フォン・クライスト将軍率いるクライスト装甲集団を構成する部隊の1つでもあった。リエージュおよびシャルルロワを突破した後、部隊は敗走した英海外派遣軍が集結し撤退を図っているダンケルクへと迫った(ダンケルクの戦い)。しかし、総統アドルフ・ヒトラーによる進軍停止命令により、ダンケルクへの突入および占領は行われなかった。同年6月中に第4装甲師団はフランスの縦断を達成。独仏休戦協定が締結された段階で、第4装甲師団はグルノーブルに到達していた。その後はフランスにおける占領任務に従事し、11月末にはヴュルツブルクに移って再編成を受けた。この際、第4装甲師団隷下の2個戦車連隊のうち第36戦車連隊が新編される第14装甲師団(英語版)の基幹となるため第4装甲師団の指揮下を離れる事となった。
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フランス戦線
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1940年6月10日、イタリア王国は英仏政府に対して宣戦布告し第二次世界大戦に参戦した。 軍は疲弊した各部隊をかき集めて30万名の兵員を招集して、王太子ウンベルト2世を名目上の総司令官に据えた西方軍集団が編成された。対するフランス軍は兵員17万名からなるアルプス軍集団を国境の山岳地帯と「南のマジノ線」と呼ばれるアルパイン線(en)に展開させた。しかし西方軍集団は1940年6月20日まで攻撃行動を行わず、開戦前と同じく国境防衛に徹していた。これは準備の不十分さや地形状の不利が基本理由であったが、そもそもムッソリーニ自身が明確な戦争計画を何も設定していなかった為である。ムッソリーニは戦略的な軍事行動ではなく、英仏降伏により中欧の超大国となる新生ドイツを中心とした戦後秩序を睨んで、単にドイツ支持を明確にしたいとの考えを持って参戦したに過ぎなかった。 戦後秩序の構築で大きく刷新されるであろう領土線において、イタリア王国は統一戦争で軍事支援の代償にカミッロ・カヴール政権が割譲したニース・サヴォア、それに旧ジェノヴァ領で文化的近縁性が高いコルシカ島の領有が外交的目標とされていた。パリ陥落により戦争の趨勢が決すると、漸く西方軍集団は緩慢な進軍を開始した。軍は沿岸部を進む部隊と山岳地帯を迂回する部隊に分けられ、ニース・サヴォアの接収が最終目標と定められた。 山岳地域を進む部隊は冬季装備を予算不足から十分に用意しておらず、戦う前にアルプスの極寒で凍傷による戦死者・戦傷者が多発した。沿岸部を進む部隊はある程度、順調に計画を進めてマントン市を陥落させた。だが沿岸部方面もアルパイン線に到達すると手詰まりとなった。ドイツ軍の様な対応策を持たないイタリア陸軍部隊は正面からの砲撃や突撃を敢行し、要塞戦闘での正攻法による攻撃で損害を蒙った。フランス軍の全面降伏までの12日間で、伊軍は631名の戦死者を出した。6月25日、イタリア政府とフランス政府の間でも休戦協定が結ばれ、マントン割譲と伊仏国境にイタリア進駐領域(北仏一帯に形成されたドイツ進駐領域と同様)が定められた。
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フランス戦線
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1944年9月29日 - サミュエル・チェイス号にてフランスのマルセイユに上陸する。10日間、補充兵の訓練等が行われた。 この時期に被服の更新があり、以後M1943型ジャケットの使用例が存在。主用されているのはODフィールドジャケット。またカッシーノ戦の頃と比較して、冬季戦闘ジャケットはあまり確認できない。前述したが、以後終戦まで第100歩兵大隊において戦闘衣への部隊章の着用は無い。兵士達も「交換があるので付けない」と証言している。またバックル一体型のコンバットブーツ(2バックルブーツ)も使用を開始。 1944年10月9日~13日 - マルセイユから列車とトラックを使用して北上。リヨンを経由し、ヴォージュ県エピナル近郊の宿営地に着き、第36歩兵師団に配属。 1944年10月15日~10月18日 - ブリュイエールの戦い(フランス語版)。戦死者38名(内第100歩兵大隊16名)。 第442連隊戦闘団はドイツ軍を掃討し、ブリュイエールを解放した。しかし第100歩兵大隊が町に滞在したのは一晩で、すぐに移動を命ぜられたものの、この解放はブリュイエールの人々にとって忘れられない出来事となった。 1944年10月19日~24日 - ベルモント・スール・ビュトン(英語版)の戦い。第2、第3大隊戦死者25名。 1944年10月20日~24日 - ビフォンテーヌ(英語版)の戦い。第100歩兵大隊戦死者13名。 第100歩兵大隊と第2、第3大隊はそれぞれブリュイエール付近の丘を攻撃した。第100歩兵大隊は命令によってビフォンテーヌ村へ下り、包囲されたが敵を撃退。 1944年10月26日~31日 - 617高地の戦い及び「失われた大隊(英語版)(テキサス大隊)」の救出を行う。戦死者56名(617高地:第2大隊12名、失われた大隊救出:連隊本部等3名、第100歩兵大隊11名及び第3大隊30名)。 第141歩兵連隊(英語版)第1大隊がドイツ軍によって包囲され、第442連隊戦闘団はその救出の為の攻撃を命ぜられる。 第36師団長ジョン・アーネスト・ダールキスト(英語版)(John Ernest Dahlquist)中将自身の立て続けの前進命令に連隊の受けた損害は増加した。 1944年10月28日 - 大隊長シングルス中佐が負傷。 第442連隊戦闘団は攻撃を続け、10月30日に第141連隊第1大隊と合流し、救出に成功する。この戦闘は後にアメリカ陸軍十大戦闘の1つとして記録された。 1944年10月31日~11月9日 - ラ・ウシエールの戦い。戦死者37名。 1944年11月13日~11月17日 - サン=ディエ=デ=ヴォージュの戦い。戦死者8名。 失われた大隊救出後も戦闘は続き、第442連隊は多大な犠牲を払った。負傷者も数多く、数名にまで減る中隊もあった。ようやく後方へと下がった11月12日に師団長ダールキスト少将が戦闘団を閲兵した際、あまりに少ない整列(K中隊に18名、I中隊には8名しか残っていなかった)を見とがめ、「部隊全員を整列させろといったはずだ」と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理のミラー中佐が「将軍、目の前に居るのがその全員です。(This is all the men, sir)」と答えた。その報告を聞いたダールキスト少将はショックの余りスピーチさえできなかったという。これは第36師団編入時には約2,943名いた兵員が800名ほどにまで減少していたからである。
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