フランス摂政に就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 06:11 UTC 版)
「ジョン・オブ・ランカスター」の記事における「フランス摂政に就任」の解説
若年の頃から戦いに参加しており、1405年にイングランド貴族のノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー、ヨーク大司教リチャード・スクループ、ノーフォーク伯トマス・モウブレーらが父に反乱を起こすと、迎撃に向かった父とウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィルの軍に加わった。兄王ヘンリー5世の治世では1416年5月にイングランドを訪問した神聖ローマ皇帝ジギスムントの出迎え役の1人に選ばれ兄と共にジギスムントを歓迎する一方、8月にはイングランド海軍の指揮を任されフランスへ渡海、イングランドが確保したフランスの都市アルフルール(英語版)の奪還を図ったフランス艦隊と衝突、勝利してアルフルールの救援に成功した。また、1415年からイングランド軍占領下フランスの防衛を任されていた。 1422年に兄が崩御すると次の王で甥ヘンリー6世(イングランド王にしてトロワ条約によるフランス王)が幼君であることから、兄の遺言によりベッドフォード公はフランス摂政としてフランス占領地の行政を、弟グロスター公はイングランド国内の行政を執ることになったが、議会はベッドフォード公を護国卿に指名し、グロスター公はベッドフォード公不在時の代理としている。しかしベッドフォード公は兄の遺言通りイングランドの政治については弟に任せ、自身はフランス内のイングランド領であるノルマンディーやパリ(イル=ド=フランス)の統治と百年戦争でのイングランド軍の総指揮に集中した。 翌1423年にはブルゴーニュ派との同盟関係を強化するため、ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)の妹アンヌと結婚した。彼女はイングランドとブルゴーニュ派の間に生じた問題の解決に何度も尽力してくれた。しかし、同時に挙行されたブルターニュ公ジャン5世の弟アルテュール・ド・リッシュモンと善良公とアンヌの姉マルグリットとの結婚を通してブルターニュとも同盟を結ぼうとしたが、ブルターニュ公は中立を貫き、リッシュモンに至っては後にフランスへ走っているためブルターニュの抱きこみに失敗した。 1424年のヴェルヌイユの戦いでは自らイングランド軍の陣頭指揮をとり、ブールジュのシャルル7世に雇われたスコットランドやロンバルドの傭兵軍団を主力とするフランス軍を破り、イングランド軍の最優勢期を築いた。しかし資金不足でロワール河畔への進軍ができず、この勝利を有効に生かすことはできなかった。 ベッドフォード公の抱える問題はフランスで孤軍奮闘状態になっていることだった。同盟者のはずの善良公はアルマニャック派(シャルル7世勢力)との闘いにはほとんど関心がなく、フランドル政策に熱中していた。イングランド国内でもグロスター公は北部国境スコットランドを危険視してフランス政策に消極的だった。外部からの援助が期待できないベッドフォード公としては、せめてノルマンディー公領をはじめとする占領地からの収入は固める必要があり、そのためにノルマンディー三部会を定期的に開催した。また、占領統治の手足となる官僚養成のため1431年にカーンでカーン大学(フランス語版)を設立している。
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