フランス政府の崩壊(1351年 - 1360年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 04:01 UTC 版)
「百年戦争の歴史 (1337-1360)」の記事における「フランス政府の崩壊(1351年 - 1360年)」の解説
ブルターニュでは小競り合いが続いており、中でも1351年に騎士道精神の華として有名な「30人の戦い」が起きている。これはイングランド、フランス両方から、それぞれ30人の騎士を出して戦ったもので、フランス側が勝ち多額の身代金を得ている。 黒死病の後、イングランドは財政的に回復し、1356年にエドワード黒太子はガスコーニュから侵攻を行い、ポワティエの戦いで勝利を収めた。再びイングランドのロングボウを活用した作戦とガスコーニュの騎士ジャン3世・ド・グライーがタイミング良く側面をついたことにより、フランス王ジャン2世と多くの貴族を捕獲することに成功した。ジャン2世が捕らわれたことでフランス政府の機能は崩壊し始めた。ジャン2世の身代金は200万エキュと定められたが、当人は自らの価値はもっと高いと不服を述べて、倍の400万エキュとなった。 1359年のロンドン条約により、400万エキュの身代金が決定され、ノルマンディー、ブルターニュ、アンジュー、メーヌとフランドルからスペインまでの全ての海岸部がイングランドに割譲され、アンジュー帝国が復活することになった。 1358年にジャックリーの乱と呼ばれた農民反乱が起こった。戦争による度重なる被害と地方貴族に対する憎悪によるもので、ギョーム・カルルに率いられた一団はボーヴェに始まり、周辺の村から参加者を集めながら、貴族や城を攻撃しながらパリに向かったが、その年の夏にメロの戦いに敗北し、叛乱は鎮圧され、報復の弾圧が続いた。同時期にパリで商人頭エティエンヌ・マルセルが反乱を起こしており、フランス王位を狙っているナバラ王カルロス2世(悪人王)と結ぶ動きを示していたが、同年に収束した。 1359年に王太子シャルル(シャルル5世)が開いた三部会は、ロンドン条約の承認を拒否した。これを受けて、1359年10月にエドワード3世は、戴冠を目指し再びフランスに侵攻した。シャルル5世のフランス軍は野戦での戦闘を避けたが、イングランド軍はランスやパリを占領することはできなかった。このため、1360年5月にロンドン条約から大幅に条件を緩め、フランス王位の放棄と交換にアキテーヌとカレーの割譲及び300万エキュの身代金を中心とするブレティニー条約を結んだ。これは10月にカレー条約として正式に締結された。 ブレティニー条約の結果、幾人かの王族が代わりに人質になることで、ジャン2世は解放されてフランスに戻ったが、資金集めは難航した。このため人質の拘留は延長されたが、人質達は自由な行動が許されていたため、1363年に人質の1人でジャン2世の次男アンジュー公ルイ1世がフランスに逃げ戻った。ジャン2世は騎士道精神にあふれ、善良/お人良しと評された人物で、これを聞いて驚きと怒りを示し、自らの誓いと名誉を守るために、1364年にイングランドに戻った。ジャン2世はイングランドで騎士道精神に富んだ名誉を守る人物として称賛、歓迎され、その年に捕囚のまま亡くなった。
※この「フランス政府の崩壊(1351年 - 1360年)」の解説は、「百年戦争の歴史 (1337-1360)」の解説の一部です。
「フランス政府の崩壊(1351年 - 1360年)」を含む「百年戦争の歴史 (1337-1360)」の記事については、「百年戦争の歴史 (1337-1360)」の概要を参照ください。
- フランス政府の崩壊のページへのリンク