第一インターナショナルへの参加、アナキスト運動の隆盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 17:10 UTC 版)
「ミハイル・バクーニン」の記事における「第一インターナショナルへの参加、アナキスト運動の隆盛」の解説
1868年、バクーニンは第一インターナショナルのジュネーヴ支部に参加し精力的な活動を行ったが、1872年のハーグ大会でマルクスを中心とする一派によって除名された。バクーニンはイタリアおよびスペインにおいてインター支部を創設する際に重要な役割を果たしていた。 1869年、社会民主同盟は第一インターナショナルへの参加を拒否されていた。同組織そのものが国際的団体であり、インターに加入できるのは国内的な活動を行う組織だけであるというのがその理由であった。社会民主同盟は解散し、同盟を構成していた団体は各自でインターに加盟した。 1869年から70年にかけて、バクーニンはロシアの革命家セルゲイ・ネチャーエフとさまざまな地下活動を通じて関わることとなる。しかしバクーニンは革命をめぐるネチャーエフの主張を「革命のイエズス主義」と称し、関係を断絶した。この主張は、革命を成し遂げるためにはあらゆる手段が正当化される、というものであった。 1870年、バクーニンはリヨンで暴動の先頭に立った。これは失敗に終わったものの、のちのパリ・コミューンの先例となった。リヨン蜂起は普仏戦争によるフランス政府の崩壊に呼応した大規模な反乱の呼び水となるものであり、帝国主義的紛争を社会革命に繋げようとする動きであった。『一フランス人に宛てた現状の危機に関する手紙』では労働者階級と農民階級が革命運動において連帯するべきであると訴え、また後に「行動によるプロパガンダ」という言葉で表されることになる己の理念を明確にしている。 バクーニンが強力に支援した1871年のパリ・コミューンは、フランス政府により容赦のない弾圧を受けた。彼はコミューンをひとえに「国家に対しての反乱」としてとらえ、コミューンのメンバーには国家のみならず革命家による独裁体制も拒否すべきであると呼びかけた。バクーニンは一連のパンフレットでコミューンとインターを擁護し、イタリアの国家主義者であったマッツィーニとは対立したが、多くのイタリア共和主義者がこれによりインターに連なることとなり、革命的社会主義はその根拠を獲得したのであった。 バクーニンはマルクスの意見には同意できず、1872年のハーグ大会で行われた投票においてマルクス一派に敗北を喫し追放されている。これは革命に向けて直接的行動を取り、労働者階級を組織化して国家と資本制を滅ぼすべきであるという「反専制主義」各派の論調と、労働者階級により政権を奪取する社会民主主義を掲げるマルクス派との溝がインター内部において深まりつつあったことの表れであった。 反独裁派はサンティミエ大会を開催して独自のインター組織を創設し、革命主義的アナキストを標榜した。バクーニンは、マルクスの階級分析や資本主義に関する経済理論を認め、彼を「天才」と認識していた。しかしマルクスの性格を傲慢であると感じており、また議会進出も厭わない彼の手法によって社会革命が妥協の産物に終わってしまうとも考えていた。なによりバクーニンは「専制的社会主義」を批判しており、マルクスに従う一派を「権威主義派」と批判していた。プロレタリア独裁についても同様で、この思想に対してバクーニンは一貫して拒絶を表明しつづけ、「最も熱心な革命家に全権力を与えたならば、一年もしないうちに彼はツァーリより酷い君主となっているだろう」という言葉を残している。 1873年、バクーニンは引退してルガーノに住み、1876年7月1日、ベルンで死去した。
※この「第一インターナショナルへの参加、アナキスト運動の隆盛」の解説は、「ミハイル・バクーニン」の解説の一部です。
「第一インターナショナルへの参加、アナキスト運動の隆盛」を含む「ミハイル・バクーニン」の記事については、「ミハイル・バクーニン」の概要を参照ください。
- 第一インターナショナルへの参加、アナキスト運動の隆盛のページへのリンク