第一インターナショナルの結成
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「カール・マルクス」の記事における「第一インターナショナルの結成」の解説
1857年からの不況、さらにアメリカ南北戦争に伴う綿花危機でヨーロッパの綿花関連の企業が次々と倒産して失業者が増大したことで1860年代には労働運動が盛んになった。イギリスでは1860年にロンドン労働評議会(英語版)がロンドンに創設された。フランスでは1860年代以降ナポレオン3世が「自由帝政(フランス語版)」と呼ばれる自由主義化改革を行うようになり、皇帝を支持するサン・シモン主義者や労働者の団体『パレ・ロワイヤル・グループ(groupe du Palais-Royal)』の結成が許可された。プルードン派やブランキ派の活動も盛んになった。前述したようにドイツでも1863年にラッサールが全ドイツ労働者同盟を結成した。 こうした中、労働者の国際連帯の機運も高まった。1862年8月5日にはロンドンのフリーメーソン会館(英語版)でイギリス労働者代表団とフランス労働者代表団による初めての労働者国際集会が開催された。労働者の国際組織を作ろうという話になり、1864年9月28日にロンドンのセント・マーチン会館(英語版)でイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スイス、ポーランドの労働者代表が出席する集会が開催され、ロンドン労働評議会(英語版)のジョージ・オッジャー(英語版)を議長とする第一インターナショナル(国際労働者協会)の発足が決議されるに至った。 マルクスはこの集会に「ドイツの労働者代表」として参加するよう要請を受け、共産主義者同盟の頃から友人であるヨハン・ゲオルク・エカリウス(ドイツ語版)とともに出席した。マルクスは総務評議会(執行部)と起草委員会(規約を作るための委員会)の委員に選出された。 マルクスは早速に起草委員として規約作りにとりかかった。委員はマルクスの他にもいたものの、彼らの多くは経験のない素人の労働者だったので(労働者の中ではインテリであったが)、長年の策略家マルクスにとっては簡単な議事妨害と批評だけで左右できる相手だった。マルクスもエンゲルスへの手紙の中で「難しいことではなかった。相手は『労働者』ばかりだったから」と語っている。イタリア人の委員がジュゼッペ・マッツィーニの主張を入れようとしたり、イギリス人の委員がオーエン主義を取り入れようとしたりもしたが、いずれもマルクスによって退けられている。唯一マルクスが譲歩を迫られたのは、前文に「権利・義務」、協会の指導原理に「真理・道義・正義」といった表現が加えたことだったが、マルクスはエンゲルスの手紙の中でこれらの表現を「何ら害を及ぼせない位置に配置した」と語っている。 こうして作成された規約は全会一致で採択された。後述するイギリス人の労働組合主義、フランス人のプルードン主義、ドイツ人のラッサール派などをまとめて取り込むことを視野に入れて、かつての『共産党宣言』よりは包括的な規約にしてある(結局ラッサール派は取り込めなかったが)。それでも最後には「労働者は政治権力の獲得を第一の義務とし、もって労働者階級を解放し、階級支配を絶滅するという究極目標を自らの手で勝ち取らねばならない。そのために万国のプロレタリアよ、団結せよ!」という『共産党宣言』と同じ結び方をしている。 「第一インターナショナル」も参照
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