第一の隆盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:21 UTC 版)
773年ごろに金曜モスク(ジャーメ・モスク)の基となった大モスクが建立され、町は大モスクとコフネ広場(旧広場)を中心に発展していく。 10世紀までにウマイヤ朝、アッバース朝、サッファール朝、サーマーン朝がエスファハーンを支配した。931年にブワイフ朝の支配下に入り、939年にブワイフ朝の首都に定められた。アラーウッダウラのもとで市壁が築かれ、おおよそ市壁に沿って町が発展した。貿易路の交差点に位置する立地のため、多くの街道がエスファハーンと結ばれる。 11世紀にエスファハーンはガズナ朝、次いでセルジューク朝に領有される。セルジューク朝のスルターン・マリク・シャーは、エスファハーンを国の都に定めた。金曜モスクと隣接するコフネ広場を中心として、エスファハーンは最初の隆盛期を迎える。 金曜モスクは修復され、南北の大ドームと、中庭に面した4つのホール(イーワーン)が増築される。また、モスクの近くにニザーミーヤ学院が建設された。セルジューク朝支配下のエスファハーンでは200人の両替商が営業を行い、50のキャラバンサライ(隊商宿)が建っていた。 セルジューク朝が分裂した後のエスファハーンは首都としての機能を失うが、地方の中心都市としての地位を保っていた。多くの国がエスファハーンの領有を巡って争ったためにたびたび破壊に晒されたが、交通、商業、文化、農業の一拠点としての重要性は維持していた。
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