ブランキ派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:10 UTC 版)
プルードン派の代わりに台頭したのが、ブランキ派である。ブランキ派は革命家オーギュスト・ブランキの思想を信奉するグループであり、その思想はプルードンとは対照的に攻撃的で暴力的な性格が強く、現状変革のために暴力革命の必要性を説き、政府打倒のためなら陰謀やテロを厭わない過激主義であった。ブランキのもとには多くの弟子が参集し、ギュスターブ・フルーランス(英語版)、エミール・ウード(英語版)、トリドン(英語版)、リゴー、プロトー(英語版)、テオドール・フェレ(英語版)などの後にパリ・コミューン政府の要職に就く人々がその隊伍に加わっていった。ブランキはマルクスのような資本や労働に対する理論的な洞察力はなかったが、人民による暴力的な権力奪取と独裁を主張するとともに、国有化の断行や計画経済の導入を提唱するなど早い段階から明確な国家観をもっていた。 ブランキ思想の後世への影響は絶大であった。資本主義経済システムの崩壊と革命の不可避性に関するマルクス主義思想(恐慌・革命理論)に、暴力革命論を追加してボリシェヴィキ主義へとつながる共産主義思想のイデオロギー形成にも力を貸した。後の時代に成立をみるソ連体制・ドイツの正統マルクス主義者の待機主義を批判したレーニンの国家理論・革命理論(プロレタリアート独裁)にも大きな影響を与えた。また、マルクスの最大の好敵手であったバクーニンの革命理論や無政府主義思想(アナルコ・サンディカリズム)にも示唆を与え、その思想は後継者に欠くことはなかった。ブランキ派の台頭はIWAに大きな影響力をもたらした。 マルクスの支持者は、マルクスのブランキに対する深い敬意とその思想的同期からしだいに増加し始め、ブランキ・マルクス派という形でその勢力を拡大させていった。1867年以降は深刻な恐慌から革命的情勢が高まり、IWAの革命化が進んでいった。ヴァルラン、ブノア=マロン、パンディといった指導者たちが続々とブランキ・マルクス派へと転向していった。彼らは後の共産主義者と区別するために「集産主義者」と呼ばれることになったが、旧来的なプルードン主義と決別して「パリ労働者組合連合会議」、「IWA・フランス連合評議会」などの組織を設立して革命派連合を組織し、帝政に対する批判と攻撃を強めていった。 「ブランキ」、「マルクス」、「バクーニン」、および「レーニン」も参照
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