内憂外患と帝権の衰退
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「パリ・コミューン」の記事における「内憂外患と帝権の衰退」の解説
また、フランスは外交面でも失策が相次いだ。メキシコ出兵は失敗に終わり、ゲリラの一団による抵抗を前にフランスの国威も地に落ちた。イタリア統一戦争時のイタリア王国の離反は、ナポレオン三世の野望を破綻へと導いた。ガリバルディのローマ進軍を二度にわたって妨げた結果、プロイセン・オーストリアの二大国に対する守りをなす、イタリアからの信頼を失うことになった。あろうことか、イタリア王国はプロイセン側に寝返ってしまう。外交では孤立化が進展していき、プロイセンとの全面対決を有利に進めるための強力な同盟国を欠いたままで戦争に突入することとなった。これらの内憂外患は第二帝政の命取りとなっていく。 1867年、民衆への懐柔策として「集会の権利」が認められて、「公共集会」の開催が許可される。その結果、地区を単位とする共和派を支援する選挙集会も行われるようになっていった。また、デモ活動は許されていなかったが、結社の自由がすでに部分的に認められるようになり、互助的な協同組合が盛んに結成されるようになった。これらの改革は労働者の発言力を強めた。政治活動や労働運動が認められるようになるにつれて労働者の自立性は高まり、ジャコバン派やブランキ派など急進的な革命派が形成されるようになる。 1869年総選挙(英語版)がおこなわれる。このときの総選挙ではジュール・フェリーやレオン・ガンベタ、アドルフ・クレミュー、ヴィクトル・ロシュフォール(英語版)など後に仮政府(英語版)の要職に着任する共和派議員が圧勝して、292議席中116議席、およそ半数の議席を制するなど反帝政の急進派が躍進した。 労働者街をなしていたベルヴィール地区では反政府的な選挙集会が開催されていた。このとき、ベルヴィール地区民衆と選挙委員会は、「常備軍・国家警察の廃止」、「言論、集会、結社の自由」を盛り込んだ独自に選挙綱領―ベルヴィール綱領を定めて、候補者ガンベタに提示するといった自発性を示した。これは議会政治を単なる代議制として考え、議員の代表によって国民の意思を表示するという間接民主制に頼るのではなく、議員を民衆の代理人として位置付けて国民の意思を伝達させるべきだとする直接民主主義の理想、古くはルソーの社会契約思想に遡る共和主義理念の再生を見てとれる。1869年総選挙は歴史的選挙であった。病気がちになっていたことも相まって、ナポレオン3世の政治力はこのとき既に失われ始めていた。1870年、エミール・オリヴィエによる新内閣が成立して第二帝政は「議会帝政」へ移行していった。 「ジャン・ジャック・ルソー」および「社会契約」も参照 しかし、1867年恐慌はますますその深刻の度を強めていった。金融資本が企業投資を手控えたため、フランス銀行にマネーが滞留して金詰まりの状況となっていたのである。長期不況となったため、労働者の窮状は一層厳しいものとなった。1870年、ル・クルーゾの炭鉱で大規模なストライキが発生したほか、ナポレオン3世の従弟にあたるピエール=ナポレオン・ボナパルトがロシュフォールの同志で『ラ・マルセイユ』の記者であったヴィクトル・ノワールを殺害する事件が発生した。ストライキ闘争の激化とノワール射殺事件の発生の結果、反帝政の世論はかつてない熱狂の様相を呈し、ストライキは賃金闘争の域を超えて大規模な反政府運動へと発展、もはや国内は政府の統制が利かない状況となっていったのである。
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