内戦:1917-1922
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「反ユダヤ主義」の記事における「内戦:1917-1922」の解説
ロシア白軍総司令官のコルチャークは1918年7月のロマノフ家処刑直後に『シオン賢者の議定書』に没頭し、1919年2月15日には「ロシアを破滅に追い込んでいるユダヤのごろつきどもを追い立てよ」と宣言し、ロシアの大地は反ユダヤ十字軍を必要としていると宣言した。アントーン・デニーキンが指導した南ロシア白衛軍は1919年秋にモスクワからトゥーラまでのかつてのユダヤ人定住地区を進軍し、デニーキンはポグロムを禁じたものの、ポグロムが行われた。デニーキンは反ユダヤ熱は兵士に蔓延し、キリスト教徒兵士からの虐待を防ぐためにユダヤ人部隊を編成したり、また白軍義勇兵のユダヤ人将校数十人が追放されたこともあったと記録している。 革命の結果無一物となった白系ロシア人はユダヤ脅威論を吹き込まれていたため、革命は危惧が的中したこととなり、敵意はボリシェビキのユダヤ人幹部に向けられ、次に革命を逃れてシベリア、満州に避難した一般のユダヤ人にも向けられた。1919年6月、ロシアでキリストと皇帝を殺害しロシアを破滅させようとしているユダヤ人についてのパンフレットが広く配付された。 1919年、ロシア内戦期のウクライナのキエフ県、ポドリア県(ポジーリャ)、ヴォルイニア県でポグロムが625件発生し、ポドリア県のプロスクロフでは1650人・ヘルソン県のエリザヴェトグラートでは1526人のユダヤ人が殺された。ポグロムに参加したのはウクライナ軍、赤軍、白軍(義勇団)、農民であった。ウクライナ軍は「ウクライナを救うためにユダヤ人を殺せ」というスローガン、旧皇帝軍の義勇団は「ロシアを救うためにユダヤ人を殺せ」というスローガンによってポグロムを行った。ウクライナの緑軍は指導者アタマンがユダヤ人のトロツキーは正教会を破壊すると扇動した。1918年から20年にかけてウクライナで殺害されたユダヤ人は6万人以上となった。 赤軍のユダヤ人指揮官が所持していたといわれたツンダー文書(Zunder Document)も1918年5月頃以降のロシア白軍で流布し、1922年にはチェコスロバキア共和国議会で読み上げられた。 ドイツのナチ党にはバルト海沿岸地域出身のドイツ系ロシア人が大きく寄与した。1917年の革命以前はロシア帝国領だったリガ出身のマックス・フォン・ショイプナー=リヒターはナチ党最大の資金調達者であり、シッケダンツ、クルゼル、マントイフェルなどもリガ出身であった。1935年に『ユダヤ帝国主義』を刊行したボストゥニツはSSでユダヤ人問題担当科学専門家となるが、元ロシア帝国領ウクライナ出身であった。
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