内戦から米軍撤退まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 17:42 UTC 版)
「イスマーイール・ハーン」の記事における「内戦から米軍撤退まで」の解説
知事としての在任中、彼は半ば自立し、ヘラートをまるで個人的なレーエンのように統治した。その結果、中央政府との間に軋轢が高まることになった。とりわけ、イランとトルクメニスタンからの貿易品に課した関税から得られる莫大な歳入を政府に移譲することを、彼は頑に拒んだ。この資金はヘラートの戦後復興に充てられただけでなく、彼の私兵の整備にも回されていた。アメリカは、カルザイを支援しており、イスマーイール・ハーンのイランとの結びつきを懸念して、ハーンの追い落としを提案したと言われる。また、2003年3月には中央政府に伝えずにイランを訪問、ハータミー大統領と会談して復興支援要請を行うなど、独自の外交も展開した。 2004年3月21日、イスマーイール・ハーンの息子ミールワイス・サーディク航空・観光大臣がヘラートで国軍司令官の攻撃によって殺害されたことに端を発し、イスマーイール派私兵と国軍の衝突が勃発、100人以上が死亡する事態に発展した。翌日中央政府は国軍兵600人と内務大臣及び国防大臣を派遣して沈静化につとめたが事態はおさまらず、さらに8月にはイスマーイール派とアマーヌッラー将軍派の衝突で約50人が死亡する事件も発生した。中央政府は遂に2004年9月11日、イスマーイールをヘラート州知事から解任した。解任に抗議する支持者約800名が国連関係事務所に対し投石、放火等を行い暴徒化し、支持者の中で数名の死傷者が発生した。同年12月、懐柔策によって、彼はカルザイ政権に水資源・エネルギー相として入閣した。
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