内戦と1875年の憲法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:04 UTC 版)
「トンガ大首長国」の記事における「内戦と1875年の憲法」の解説
1799年に、第14代トゥイ・カノクポル、トゥクアホ(Tuku'aho)が暗殺され、この事件を契機にトンガは、五十年に渡り続く内戦へと突入した。トゥイ・カノクポルの第19代王朝統治者であるジョージ・ツポウ1世(George Tupou I, Taufa'ahau)は、内戦を1845年に奇貨として捉えた(タウファハウは、キリスト教の洗礼を受け、洗礼名は「ジョージ George」で、ジョージ・ツポウ1世となった)。 タウファアハウは、「成文法典」を導入したため、一般民衆の支持を得ることができた。最初の法典は、1839年の「ヴァヴァウ法典(Vava'u Code)」であった。同じ理由で宣教師たちは彼を後援した。法律の成立を利用して、彼は、トゥイ・トンガの宗教的権力を減少させ、また力あるカノクポルの族長たちの権威を低減させた。彼は王国を一つにまとめ、1875年に国家に対するみずからの統治を確実にする憲法を制定した。
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