内戦とカトリック刑罰法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:44 UTC 版)
「アイルランドの歴史」の記事における「内戦とカトリック刑罰法」の解説
17世紀はアイルランド史のなかで最も血塗られた時代である。アイルランド同盟戦争(英語版)(1641年 - 1653年)、クロムウェルのアイルランド侵略(1649年 - 1653年)、ウィリアマイト戦争(1689年 - 1691年)により人口は激減、カトリックに対する刑罰法(Penal Laws)によってカトリックの地主階級が凋落し、差別が固定化する事になった。 17世紀中期のアイルランドでは、キルケニー同盟が蜂起したアイルランド反乱(英語版)(1641年)に端を発するアイルランド同盟戦争(1641年 - 1653年)が発生していた。この戦争によりカトリック教徒はアイルランドの支配権を取り戻したが、1649年のオリバー・クロムウェルが率いた植民地主義的な侵略、いわゆるアイルランド遠征によってそれも終わりを告げた。このイングランドによる侵略が引き金となり、アイルランドの人口の3分の1が死亡するか亡命したとされる。1641年の反乱への懲罰として、ほぼ全てのカトリック地主の土地が没収され、イングランド人入植者へと与えられた。アイルランド人の地主たちはコノート地方へと移住させられた。 1689年、アイルランドは名誉革命の舞台となった。カトリック教徒であるジェームズ2世がイングランド議会により廃位され、オランダ総督・オラニエ公ウィレム3世がウィリアム3世として即位すると、アイルランドのカトリックはジェームズを支援してイングランド王位に復位させようと試みた。このウィリアマイト戦争でアイルランドはカトリックとプロテスタントに二分して相争ったが、1690年にボインの戦いでジェームズ軍が敗れると、アイルランドでもプロテスタント支配が強化され、カトリック刑罰法も以前に増して厳しく施行されるようになった。
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